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逝くとは?/ セントラルファイナンス

[ 533] オンナSEが逝く!
[引用サイト]  http://www.aade.co.jp/aade/web/blog/

今までChoco(投稿者)の権限ではシステムに触れなかったため、社長に申請して管理者権限に変更してもらい、ようやく怪しげなところを直しましたん♪
このBlogの更新を、首を長ーくして待ってるウチに“キリン”になっちまった方がどのくらいいるかは存じませんが、ひとまず再開です(笑)
私が一緒に仕事をしているチームに、I氏@ヨン様似の(SEにしちゃ)一見「爽やかイケメン」風味なヤツがいるんですよ。
いかんせんこのギョーカイは、何度も言っているように女子率が低いので、そんなイケメンでもキャーキャーもてはやされる場面など皆無。
つまりは、2〜3月はその大詰めになり、時に(実際稀とは言い難い確率で)残業の日々を送る羽目になります。
このBlogを更新するヒマがあったら少しは睡眠時間に充てなきゃ体力がもたないなーという大義名分を心の中でつぶやきつつ、書くのをサボっていたワケですなw
あくまでN氏@老けた吉田栄作似を中心に、既参加者やたまたま同じプロジェクトチームで仕事しているアナデジメンバーが半強制的任意に集い開催されているものでございます。
都度メンバーは(残業他仕事の状況などで)入れ替わったり人数もマチマチなのですが、地味にその活動は維持され現在に至ります。
そんな乾いた世界でも、せめて性別がオンナという人種が存在すれば、チョコのひとつでも貰って悲しむ輩はいないはず。
そんなワケわからんポリシーにより、今年は同じチームのリーダーN部長@老けた吉田栄(以下略)と、隣席でいつもがんばってくれているY氏@アバクロ好きに「お歳暮」的チョコをあげてみました(笑)
ソフトウェアハウスや企業のシステム開発室等、SEがはびこる職場というものは、以前もちらと書きましたが、かなり男女比率がおかしいのです。
30手前までの約10年、あたしはメーカー・流通・広告代理店と多種多様な業界を経験しましたが、どこも半数とまではいかなくても、一般職(いわゆるOL/あるいはお局)の方々が、ある種幅を利かせておりました。
だが、ただでさえオタクやゲーマーなどの、いわゆる「アキバ系」の多いこのギョーカイでは、(社内外を問わず)皆バレンタインなどどこ吹く風状態。
いくらオトコに囲まれようと、おおかたどこもそんなヤツらばかりなので、いくらイベント好きなあたしでも盛り上がる気分にすらなりませぬ。
いったいヤツらはバレンタインというイベントが何を意味するか知っているのだろうかと、小一時間問い詰めたい気分になりますです……(;´Д`)

 

[ 534] asahi.com:絵門ゆう子さん逝く 発信続け最期まで希望 - 暮らし
[引用サイト]  http://www.asahi.com/life/TKY200604060254.html

本紙東京版の人気コラム「がんとゆっくり日記」の筆者、絵門ゆう子さん(49)が3日夜、亡くなった。「書いたり話したりするのは張り合いになるの」という言葉の通り、困難の中でも未来への希望を失わず、最期まで精力的に発信を続けた。(上野創)
「命はみんな同じだけ重くて大事。今日という日があってよかった、と思えるように日々過ごして」。絵門ゆう子さん(左)は、「いのちの学習」に取り組む子供たちに笑顔で語りかけた。隣はパラリンピックの水泳金メダリスト成田真由美さん=2月18日、新宿区立四谷第六小学校で
講演会で初めて会った日、絵門さんは目をぱちぱちさせながら話し出した。患者の気持ち、医療への願いや注文、病や治療との付き合い方。実際、思いがあふれて言葉が追いつかないようだった。私も2度のがんの再発を経験していたので、共感することばかり。
「その熱い気持ち、新聞で書いてみませんか」とお願いして03年11月、「がんとゆっくり日記」が始まった。患者の心を歯切れ良い言葉とユーモアでつづる「日記」は、紙面の都合で休載すると多くの問い合わせがくる人気のコラムになった。
話したい。発信したい。その源は、「がん患者は死が近くてかわいそう」といった狭い枠を外してほしいという、世間への憤りだったと思う。
「死を受け入れよ、じゃなくて、きちんと生に執着せよって言ってほしいね」「余命、告知、壮絶、みたいな怖い言葉は即刻、やめるべきよ」「元気になったがん患者のドラマはなぜないの?」とコラムで書いた。
自身も死ではなく、ひたむきに生に目を向けていた。どんなに確率が低くても、「難しい」と思われても、完治を信じる自分がいる、と。
「病人だから何もできないというのは違う」「できる範囲で期待してほしい」とよく話していた。実際、期待されると燃える人で、じっとしているのが苦手だった。
本の執筆だけでなく講演や朗読コンサートに飛び回った。首にコルセット、キャスター付きの茶色い小ぶりのバッグが移動のスタイル。今年2月9日付のコラムには「約束した講演や朗読が置き石のように元気をつないでくれる」とある。
そんななかで、週1回のコラムを2年半近くも続けるのは大変だったはずだが、自分から「休みたい」と言ったことは一度もなかった。「反響もうれしいし、生きる張り合いだから大丈夫」といつも答えた。
「心ない言葉を投げかける医者がまだいるらしいのよっ」「本人が望みもしないのに余命を告げることにどんな意味があるのかしらね」。病と向き合う仲間や読者から報告を受けると、憤慨して私にそう電話してきた。
ちょうど1年前のコラムでは、信頼している主治医の中村清吾先生について触れている。「やはり先端医療うんぬん以前に人間性。そして肝心なのがタイミングと相性」
絵門さんは3日夜、風呂から上がってマッサージを受けているときに息苦しくなり、救急車で聖路加国際病院に入った。中村先生や家族が見守る中で息が止まった。
絵門さんの喜怒哀楽を抜群の包容力で受け止め、コラムにもたびたび登場した夫の三門(みかど)健一郎さんは「なるべく家で過ごしたい、中村先生の『ご臨終です』の声で逝きたい、という希望通りでした。最期の最期まで前向きに生きようとしていました」と話した。
最後の回となった先週のコラムは「次回も続きます」で終わっている。自身のこれまでを「ストレートに報告する」がテーマ。本音の経過報告をもう数回続ける構想だったらしい。「何を書きたかったのでしょう」と三門さんに問うと、「いつか、あちらの世界にいったら聞いてみましょう。あの調子でいくらでも話し続けると思いますよ」。
00年に乳がんの診断を受け、全身に転移したが治療を受けて活動を再開。03年に自ら体験した医療とのかかわりなどをまとめた「がんと一緒にゆっくりと」(新潮社)を出版し、05年には続編「がんでも私は不思議に元気」をまとめた。
同年には、5匹兄妹のウサギを主人公に命の大切さを訴える絵本「うさぎのユック」を執筆。子供たちと一緒に同書の朗読コンサートも開いた。
各地で講演を行いながら、産業カウンセラーの資格を取得。がん患者や家族向けのカウンセリングを続けた。
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