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書き込もとは?/ セントラルファイナンス

[ 408] タブラ・ラーサの複雑なレイヤーの隙間に書き込もう。 - ウォール伝、はてなバージョン。
[引用サイト]  http://d.hatena.ne.jp/mimisemi/20080508

今日は物凄く調子が良かった。まぁなぜだか分かるよね?なんか情けないよね。マジで。今朝っつーか昼過ぎに起きたらリア二千からメールが来ててさ、っつーかまぁ昨日の夜中にこっちから送ってたんだけど、これがまたホントにねぇー・・・・寝起きでいきなりコカインやったような気分になってさ、この時の「快」物質が一日中持続したんだろうね。物凄い恣意性。
この快感覚が強すぎたのか、電車の中で読んでいた本に集中しすぎたあまり普段降りるべき駅を乗り越すなんていう常軌を逸したことが起こったりなんかして、まぁ凄かった。分からん、これって俗に言う躁鬱ってやつなのかな?で、ハイになってるっていうよりかは、ここ数日の気分がどんよりしてたんで、清清しい気分になってたのか、まぁさ、最近、学校の近くに出来た本屋に行って立ち読みしつつ気に入ったら買うってのが癖になっててね、これがヤバいんだわ。調子が悪いときはストレス解消の買い物感覚で買うでしょ?で、今日みたいな調子のいい日は単純に凄まじい知識欲が湧いて何冊も買っちゃうのね。まぁでも最近はさすがに読めそうなやつばっか買ってるけどね。やたら分厚くて長いヤツとかだと途中で飽きるし、あの分厚さが読むのを面倒くさくさせるっていうかさ、変な話なんだけどね。100ページぐらいの本だとすんげー読む気が起こるじゃん?で、300ページ超えるとすげー読む気が無くなるんだよね。
ところで最近、あの雑誌の定期購読の件以来、ずーっと伊藤カードが使えなくなっててさ、5日って聞いてたんだけど15日だったか?でもチェックは引き落としが出来てたしなぁ・・・。本屋で手持ちのキャッシュをほぼ使い果たしてるから手元に金が無いんだよね。だから昼メシ食えないの。手元に金があればその最近ついた癖で本屋に行って何かを買おうと思っちゃう。だから朝飯っつーかまぁ夕方ぐらいに朝飯を食べるんだけど、そっから学校帰ってくるまで何も食べないようなサイクルが続いてたんだよね。で、今日はさすがに腹が減ったんで、クレジットカードを使えるサブウェイでさ、サンドイッチを食べたんだけど値下がりしてて驚きだったな。デカイサイズのサンドイッチが5ドルちょいだったから驚き。前はたぶん7ドルぐらいしてたような気がする。まぁいいや。んでまぁ買った本を読みながらね、何を買ったかは秘密なんだけど、サンドイッチ食べたら上手いのなんのって!食といえばシリアルかバナナか玄米か卵ぐらいしか食べないっつーか面倒だから何も作らないのと外食なんてもってのほかだから久々にこういういろんな味がするものを食べると感動するよね!その味に。で、ただですら調子が良かったのに、もうサンドイッチが旨くて頭がビンビンになっちゃってさ、もう凄かったのなんのって。で、そんなハイテンションのまま哲学のクラスに行ったんで、もうあれよ、ペラペラ喋りすぎ。普段もこんぐらいの勇気と英語力と流暢さで喋れればなぁーってぐらい上手く喋れるの。で、帰りにも先生に質問しまくりで、先生もちょっと引いてたもんな。完全に躁鬱的だよな。でもさ、躁鬱っていっても内面から来てる躁鬱っていうよりかは、外的なものにトリガーされて鬱になったり躁になったりしてるわけじゃない?だからどうなんだろうね?でもマジでホント、ディスオーダーだよね。最近、よくディスオーダーって言葉を使うけど、なんかあれなのよ、勝手に自分を分析する癖がついちゃってっていうか、まぁ普段からあるけど最近酷いんだよね。その分析だけで頭がオキュパイドされたりなんかして、もうエッセイとか試験とかじゃない感じ。あ、んで哲学の試験ではまたAを取ったんだけどね、これもADHDだからなんだよ。興味があるから全然やれるわけ。まぁいいや、ADHDとかって勝手に決めるのはギャグでもやめよう。
思うに一日リア二千のことを考えてたから調子が良かったというよりかは、リア二千が話しかけてきたっつーかまぁメアド交換して、なおかつまぁメールが来てたからそれが嬉しかったじゃない?で、この時の嬉しさがずーっと持続して、んでそのテンポラリーなハッピネス感だけが俺の意識に残ってて行動とか思考を規定してるっていうそんな感じなんだよね。まぁさっきコークって書いたけどまさしくそう。コカインやって脳内物質が出まくってハイになってるんで、世界とか自分の周りがどうのっていうより、脳内物質的なことで脳が「快」状態になってて、それが持続しているっていうそういう感じなんだよね。リア二千に期待をしないというのは変わらないよ。期待したら怖いからね。衝動的に自殺とかしちゃったら大変だし。ただその「躁」か「鬱」をトリガーする何かってのが全体的な気分を司るのだとすると、そもそものトリガーなんて些細なことにしか過ぎないんだよね。先週みたいに嫌なことがあると、その気分がずーっと持続して他の事をやるときにも、その嫌な気分の世界観のままそれをやるんでまたそれに対しても必死になれないし、ずーっと気分が落ち込んだままなんだよね。それはとは対照的に今日みたいに良いことがあると、それによってトリガーされたハッピーな感情が一日続いて、んで全てが調子よくなるっていうさ、特にそれが顕著なのが喋りなんだよ。日本語と違って英語で喋るのってまだまだ大変だからっつーか落ち込んでるときって日本語ですら長いセンテンスとか言えなかったりするじゃない?上手く説明できないとかさ、そういうのが英語の場合極端に出るのよ。日本語の場合、もう身についていることだから、体調とか精神状態にそこまで縛られないステイビリティがあると思うけど、英語の場合、俺の精神状態みたく相当アンステイブルだからさ、気分によって相当影響されるのね。今日はもう本当に躁だったな。でも明らかにハイっていうよりかは内面的にハイなんだよね。明らかにハイだと病院送りになっちゃうでしょ?そこまでヒドくはないんだけど、でもまぁ俺の主観からしてみれば見た目がハイだろうがそうじゃなかろうが関係ないんだよ。自分的には物凄い感情の触れ幅があるからそれが凄く怖いのね。
だから最近さ、客観的に考えれば考えるほど自分の逸脱性を感じてしまってっつーかまぁ何を今更って感じだけど、でもまぁホント、ここまで酷いとは思わなかったわけだよね。まぁウォール伝もまぁ狂ってないと書けないけどね。こんな長文をこんなペースで書くなんて頭がおかしいよ。しかもまとまりがないし、たまにまぐれでちゃんとしたことを書くとアマゾンとかハルヒの時みたいなのがあるんだけどね、それ以外はほぼスキゾだよね。でも最近さ、英語でも割と書けるようになってきてるから、例えばリア二千とか他の友達に送るメールとかがどんどん長文化してきてるんだよね。それが怖いんだ。凄く。全然コントロールが効かないっていうかさ、メールとか会話っつっても節度ってもんがあるじゃない?
あ、もうやめよう。完全に狂いそうだ。今まで肯定することによって克服してきていた俺の狂気が自覚的なものになりそうで怖いわ。まぁこれでいいや。これが俺なんだからって思うようにしないとな。鏡に向かって「お前誰だ?」って言い続けると狂うって言うじゃない?最近の俺は内面でそれを繰り返してるような気がするな。逸脱性を自覚する自分っていうのはある程度まぁ一般的な観点から物事を見ている人がいるわけじゃない?俺の中に。「こうあるべきだ」っていう自分のパーソナリティへ向けての「べき論」っつーかまぁベッキーって今後呼ぶことにするけど、これって凄いバインドなんだよね。ある程度そういうのは持たないといけないけど、ありすぎるとマジで頭がおかしくなるでしょ?いや、もうおかしいんだけど、そのおかしい自分を「お前はダメだから普通であるべきだ」って責め続けるのは自分にとって凄いストレスになるんだよ。そんなベッキーを続けたところで人格の矯正なんて出来ないんだし、これはただの無駄だよね。だったらこの逸脱性を何かに生かさないとダメだよね。そういうおかしな部分をダメなものとして否定するんじゃなくて、肯定しつつ何かに役立てるっていうね、まぁようは自分のパーソナリティーのセルフマネージメントだよね。まぁ言い方が凄くパラドキシカルだけどっていうのも自分をマネージするなんてさ、セルフも糞も無いじゃない?最初から自分でやるしかないんだから。でもまぁね、なんつーかメタレベルでのマネージメントっていう意味でのセルフマネージメントなんだよね。マネージメントをするためのマネージメントっていうかさ、で、そのマネージメントを規定する原則みたいなのを一般性に求めると気が狂うので、まずそれでいいじゃないかと肯定するところから原則を作っていくしかないわけ。メタレベルでのコンフリクトが起こってしまうと、それは下手すれば生涯続きかねないぐらいの由々しきことにもなりかねないんだよねっていうのは物事が表面的じゃなくて、超自我で起こっていることだから、それに対するアクセシビリティみたいなのが少ないんだよね。だからまぁ勝手な自分の意見だけど、社会不適応とかって30超すと矯正が難しくなるっていうのは、超自我の規定の原則がもう定まっちゃうか、もしくは自分の意志の超自我へのアクセシビリティか、もしくはそのアクセスするケイパビリティみたいなのがなくなってくるんじゃないかな?って思うわけね。で、まぁ誰にも頼れないから、取り返しのつかなくなる年齢までに自分を作っておかないと大変になるわけだよね。作るというのはもっと思春期的な概念だから、まぁ調整するとでもいうのかな?まぁともかく30までにってのを考えると明らかに少なくとも20の時よりかは時間がなくなっているわけで、一刻を争うし、こんな色々な思索に耽れるのもモラトリアム生活のおかげなんだから、それを最大限生かして何かを内面的な意味でも外面的な意味でも達成しないといけないよね。だから俺って今、すんげー人生のボーダーラインにいるんだよ。たぶん今度、ここまで重要な時期って来ないんじゃないかな?ってぐらい凄まじい時期の真っ只中にいるわけ。ボーダーラインでかけてみると正常と狂気の間でって言う意味でもボーダーラインだよね。まぁそれは境界性人格障害っていう意味でのボーダーラインじゃなくてね。
ホント、実務みたいなのに完全にオキュパイドされちゃってたら、精神的原則だの思考的原則だのなんてのを形成する脳内の暇なんて無くなるからね。中島義道みたいな人生を送れれば最高なんだけどなぁー。今の世の中っていうか精神医学っていうかがさ、世の中のニーズに答えられてないんだよね。医学に関しては昔よりかは明らかに発達してるし、それによって少なくとも救われている人達が潜在的に相当いるわけだよ。でもまぁキチガイ的要素って全ての人がポテンシャルを持ってるにしても、それに対する社会的・医学的な許容とか対応というのがその対象の数に比べると明らかに少ないんだよね。かといって精神医学が発達しすぎて、全てのことを精神医学で説明できるようになっちゃったら、例えば偏執狂性とかさ、まぁ俺の激しいタームで片付けちゃうなら、まぁキチガイの神秘性みたいなのが解体されて失われちゃったら人間性に対するファンタジーみたいなのがなくなっちゃって、人間の実存というのが極めて物質的なものにもなりかねないんだけど、その一方でその必要性も大きいんだよ。っていうのはそれによって苦労している人達もいっぱいいるので、治したいと思ってる人が簡単に治せるようにならないと、変な人ってのは苦しみ続けることになるよね。変な人ってのは恐らく大きく分けて2つのカテゴリーがあって、一つはそれに自覚的な人とそうじゃない人ね。自覚的な人の中のサブカテゴリーにはそれに対して肯定的な人と否定的な人ってのがいて、俺が言及してるのはその後者のほうね。こういう人達に対する社会的もしくは医学的な救済が無いとはっきりいってキツイわけよ。
まぁそれをいったらさ、ガンとかエイズとかを100パーセント治せるようになれっていうような、全能的なデマンドになるかもしれないけど、俺はそこまで極端なことは言ってなくて、そういう人達もまぁ選べば普通に生きていけるようなバックグラウンドがあればいいのになって凄く思うのね。それは社会的な許容性かもしれないし、精神医学的な発展かもしれない。でも前者に関しては特に最近の絶望しきっている若者達に見られるような他力本願な態度があったりするんで、俺は何もかもを社会に帰依させるってのはあんまり好きじゃないんだよな。社会ってのは人間のように最初からその存在自体がもう不能で不完全なものなんだから、完璧を求めること自体が間違っているわけだからさ、んだったらまぁ社会もそうだけど、まずは個人単位で治していきましょうよって思うわけね。もちろん社会が変な人に対しての許容性を持っているに超したことはないけど、そこに頼りすぎるのはどうかと思うってことで、俺としてはまずは治すことが重要だよなって思うわけ。ちょっと言い方が変になってるけど、プライオリティとしては社会どうこうって言うまでにまず自分で出来ることがたくさんあるし、精神医学でも出来ることはたくさんあるんじゃない?実際は?って凄く思うから、あくまでそれはやっぱり個人性に帰属させたいのね。それにしても事態は普通の人が思ってるより深刻だよ。例えばパニック発作一つにしても、こんだけ世の中にいっぱい患者がいるのに原因が分かってないんだよ?根本的な治療法ってのもない。あくまで「これが有効」とかっていう段階で、相当不完全なんだよね。まぁ完全だったら俺はとっくに治ってるわけでさ、これが無かったら日々の生活がどんだけ楽で楽しいものだろう?って思わないようにしてるけど、でもまぁ思えば思うほどそう思うよね。だってこれって明らかに障害だからね。もちろん俺はこういうのと付き合う方法を実践的な方法で色々と編み出してきたし、例えばそれをマイナス要素として考えすぎるようなことはしないようにしてるんだけど、でもそりゃ無ければ無いに超したことはないよね。究極的に言えばね。
ダメだ。明日テストがあるんで一応勉強しておかないとな。勉強っていうか暗記ね。例の性器の件ね。あーまだ全然書き足りないし、マスもかいてないんだけど、とりあえずまとめると、俺の今のボーダーラインってのはね、基本的に俺ってのは人間の知性とか才能が先天的なものに極端に依存しているものだとは考えないわけってのはもちろん凡人の遠吠えだけども、こういう話もあるよってのは基本的に生きる過程でその知性とか才能をどう磨いてきたか?っていうのにも関係しているわけよ。だから先天的に才能があっても磨かれないと意味無いってのは英語で言うところのうろ覚えだけど、Pay for piano lessonsって決まり文句があるんだよね。才能があってもレッスンしなきゃ開花しないとか、まぁあと他の意味ではたぶん金銭的な意味も含まれてるってのはlessonsってのが暗示してると思うんだけど、それはともかくその使い道なんだよね。もちろんないものもあるけどあるものもある。基本的に脳を持ってればあるものはあるからそのポテンシャルを引き出すためにはその人がまず自分の事を知らなきゃいけないんだよね。で、どれに対して限られた才能と知性を使っていくのか?とか、どれを磨けば輝くようになるか?っていうのを見定めないといけない。ここまでは名前忘れたけど、汝己を知れみたいなクリシェあるじゃない?たぶん古代ギリシャの哲学者だったと思うんだけど、ここまでは一般論として、俺が言いたいのは、その生活の仕方なのよ。っていうのもさっき書いたその超自我の原則を決めている段階というのは、自分がどうあるべきか?というのを超自我に書き込んでいる段階じゃない?そこで俺は辛いけど普通に振舞うことに重点を置くのか、もしくはそんなことを一切忘れちゃってぶっ飛んでても何かの分野で何かが開花する可能性ってのに賭けて、今のままの自分でいいんだってことを書き込むのかさ、そういうリアルタイムの選択をしている段階なんだよね。今って。
で、これがなぜ分岐点か?というと普通に振舞うことを銘じた(もしくは命じた)俺ってのは普通であることに自分のリソースっつかマンパワーを使うよね?そのマンパワーを使う段階にもその知性を使うというプロセスがあるので、そのプロセス自体が知性を形成したりパーソナリティとか才能を形成したりするわけ。ようは腕を鍛えるのか、脚を鍛えるのか?っていう分岐点に今の俺は立っていて、例えば腕を鍛えることを決めたとしたら、その腕を鍛えるという行為そのものが肉体の形成を規定するわけよね?で、恐らく何年か後には立派な腕になっているんだろうけど、それってのはプロセスの結果なんであって、その腕が鍛え上げられることというのは毎日続くことになるわけだよ。そうするとまぁ別に二者択一しなくてもいいんだけど、まぁ分かりやすく言うと、脚に重点は置かなくなるんで脚は鍛えられないわけね。でも俺は腕を選んだわけだから腕を鍛え続けるわけ。その結果、腕を使うようなことにケイパビリティを発揮できるようになる可能性が高まるわけだけど、脚を使うようなことに関しては無いとは言わないけど腕に比べたら可能性は低いわけね。ってことでその腕を鍛えるか、それとも脚を鍛えるか?っていう規定が物理的な形というのをシェイピングして、それが人生に影響してくるってことなわけね。だから俺の場合だと、今のままでいるか、それとももっと普通に振舞うことに重点を置くか?っていうことで、そのリソースの使い道が変わってくるし、その選択後の脳内の活動というのが意志なり知性なりなんなりっていう内面的なものをシェイピングするわけで、それが自ずと精神性に影響してくるってわけよ。
まぁ俺の勝手な判断だとっつーか俺はずーっと俺を一応は肯定してきたわけだから、この観点から言うと、普通なんて糞食らえだ!ってーのは普通ということを目指しすぎるとその目指す段階で使わない知性の部分というのがガンガン退化していっちゃって、ましてや音楽的なセンスとか直感みたいなのもどんどん無くなるような気がするのね。全くアーティスト性を感じない人っつーかあのマネーの虎のひばムスが「実務をやるとクリエイティビティってのは無くなっていくんですよ」って言っててさ、まさしくその通りなんだよね。俺にとって普通であるべきということは実務と同意義なわけで、俺が持っている数少ないポテンシャリティをガンガン削るようなことになるような気がするし、それはまぁあってるね。俺は登校拒否になってから自分の好きなことしかやってこなかったから今みたいな少なくともこっちではエキセントリックだけど興味深いみたいな人間になれたわけで、自分のセンスとか思考とか好みだとかを作り上げてきたのは、他でもない俺の諸行動のおかげなんだよ。それはそういった生活がそういった面を磨き上げてきたと言えるわけ。まぁ当たり前だけどね。そういう部分を使ってるんだから発達するのは当たり前だよね。ああいう大事な時期に目的も無く普通の高校とか行ってると馬鹿になるんだよ。俺はそうじゃなかったから本当に自分の精神病に感謝しているわけだけど。そういう確かな確証があるから、普通なんて何を今更って凄く思うのね。まぁ他から見たら逸脱してて変かもしれないけど、そういうのをまぁ気にしつつも重点は自分のやりたいことに置いてきてまぁ割と上手くいってるわけだから、これでいいわけだよね。1+1=2なんだってことが経験から分かったんで、んじゃあ次はその2に1を足してみようっていうことね。3になるのは少なくとも俺にとっては明白なんだよね。そこを普通であるということをしてしまうと引き算をしちゃうことになるわけ。自分勝手だと言われようが俺は足し算しかしたくないんだよ。ただまぁそうは言っても近頃の俺は特にすんげーアンステイブルなんて、普通さというのに憧れるというよりかは、まぁその逸脱度に自己嫌悪感を感じたりしちゃってるんだけど、でもまぁそこは今まで通り、騙されたと思ってやってる人生っていう世界観をキープしながら精神的な恒常性を保っていくしかないだろうなって分かってるんだけどね。
んー改めてこうやって書いてみると俺は何を悩んでたんだろうか?って思うね。まぁ人はついてこないかもしれないけど、俺は俺で生きていけそうな道を選ぶしかないよね。で、思ったより人がついてこなくはなかったというよりかは、こっちではその変人加減がウケるというか受け皿があるって意味でもこっちが気にいってるんじゃなかったの?って今更思ったりね。ダメだ、俺にとって「普通の人がどう思うだろうか?」という想像性は自分にとって毒でしかないんだなってホント、今回は痛感したね。思うに変人も磨き上げれば洗練された変人になれると思うんだよね。それがただ単に「痛いヤツ」とカッコつきの一般的な特権的なイメージとしての「変人」との差なんだと思うね。あと昨日の動画じゃないけど、なんたらセラピーとかで治る類のもんじゃないからね。俺のって。まぁいいや、こうやって考えに考え詰めて、まぁちょっとした答えみたいなのが出るとスッキリするね。願わくは嫌なことがまた嫌なことが起こりませんように・・・っていうその一点に尽きるな。俺のクレイジネスを惹起する何かというのが俺にとっての最大の敵なんだよね。ってことではぁー・・・・デフラグ完了だぁー!スッキリした。もちろん見落としてる部分とか矛盾しているところがいっぱいあるのは知ってるけど、とりあえず今日はこの辺で十分だな。とりあえず今の生活を続けられれば考えることは出来るんだから、また何かが見つかったらそれはそれでいいわけだね。ってことで無罪モラトリアム。
でさ、もう最近ゲームばっかだけどFF-X2を始めたのよ。そしたらもう大爆笑!!!!!!!!!!ユウナが踊ってるしっつーかまぁあれは変装してたあの変態女なんだけどそれにしても日本のオタク文化の急激な盛り上がりってのをすげー反映してるよね。それが割と硬派だったFFにまで侵食しちゃってるんだからヒドいよね。で、これ完全にギャルゲーなのね。ジョブシステムなんてのが使い終わったコンドームみたいに申し訳なさそうにFFの残骸感を残しているけど、まぁどうなんだろうね?
ってことユウナが踊ってるんだけど実はそれは変態女の変装だったっていうのは、ユウナがスーパースターになって踊っている、んで、それを取り囲む観客達というシーンをゲームのフックとか、あとはCMだのなんだのっていうプロモーションに使いたかったからあのシーンを制作側は作ったわけだけど、ユウナがアイドル歌手になっているという設定は無理があるので、変装ってことにしたわけよ。でもプロモーションビデオとかCMだけ見ればユウナが踊ってるようにしか見えないよね?もしくはゲームを始めたときのインパクト(まぁこれが感情的なフックね)が凄いわけじゃない?だから俺は大爆笑したわけだよ。なんであんな堅物の生娘がアイドル歌手なんかになってるんだろう?っつーかFF-X2のノーマン・クック度に度肝を抜かれたっていうか、あれで抜いたやつもいそうっていうか、まぁとにかくこういうことを書き忘れてたってのをいきなり思い出したから書いたわけだけど、気がついたらもうテスト勉強する時間なんてなくなってたね。シコってシャワー浴びないと十分な睡眠時間が確保できない。あ、変装ってことにしたわけよっていうよりかは、「オープニングはユウナの歌とダンスにしたい!」とかっていう製作者側のオナニーの合理化の結果があのオープニングの顛末というわけです。アイデアが実存に先立っているというのは極めて認識論的で面白いなとかって思ったのね。まぁ分からん、俺のただの思い込みかもしれないけど。まぁでもそういうことよ。それを書き忘れてたわけだから。

 

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