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恐ろしいとは?/ セントラルファイナンス

[ 289] uraNews4VIP * 俺の先祖は恐ろしい人物かも知れない・・・
[引用サイト]  http://uranews4vip.blog61.fc2.com/blog-entry-146.html

これが マジかネタか知らんがまあ どこの世界にも人食いの話はあるこの国だって 歴史や伝承・証言を紐解きゃ沢山あって飢饉や病気で切羽詰ってとかならわかるけど 切羽詰ってない場合もあって最近だと 別に食料に困ってないのに 大陸で捕虜食って部下に勧める腐れ上官の話とかフランスでやったあの人とかすんげえ昔だと 攻めた村のアイヌ人を食った話とか色々あるし
俺の村の神社には飢饉で死んだ人を埋めた「いごく穴」ってのがある。後、足の無いトラかなんかの石像やらもある。
、、、でも、もし村が食料難で見ず知らずの旅人が来たら、村の一人が「やっちゃえ」って事になったら有り得たんじゃあないの?黒人に首刈族とかいるよね。戦利品として頭蓋骨綺麗に取り去ってにぎりこぶし大にして保管していたんだって。村長が杖の先につけたりしてね、、、(唖然)人間も所詮動物よ〜。意外と記録に残っていないだけでこっそりやっちゃった人多いんじゃあないの?昔は、、、。昔は4つ足って言って、日本人は牛とか食べなかったんでしょ?どれを食べちゃ駄目なんて、その時の価値観で決まるのさ!その根拠だって何時も曖昧じゃない。戦争行って食べ物がなくなっちゃって人肉食べたって話も公には誰も言わないけどあったみたいだよ。死に瀕したら共食いだってするベ。罪悪感感じることないよ、生きたかっただけじゃあない?
これがマジだとして、飢饉で苦しんでるのなら人食ってもおかしくなくね?〉〉1の先祖たちだって自分が生き残るのに必死だったわけだし。文字通り、弱肉強食っつーことで。それにしても、俺ん家コードワロタwwwこれ見ながら食ってたお茶漬け吹いたじゃねぇか。
前回のレスでは俺んちコードが頭に残って書くの忘れてたけど私も読みながら天保の大飢饉の事じゃないかって思った。現役の中2で習って1週間も経ってなかったし。やっぱ弱肉強食だと思う。でも>>445の言うとおり、この絵には疑問を憶えるよ。
日本でも戦国時代に篭城戦がひどくて人肉を食べたと言う話もあるよ篭城 戦国時代 食人 辺りでぐぐると出ると思う
あの中学生ですけど確かそのころのききんで歴史で習ったんですが歴史の教科書にやせ細った人が人食ってる絵載ってましたよ!!!!
天保の飢饉をネタにした怪談話を絵物語にしただけなんじゃないの? イラストなんか結構しゃれっ気出てると思うけど。 おおかた、天保の飢饉がどんだけ大変だったかを、子供らに大げさに吹こうと思ったんじゃないの?
昔の人があんなポップな絵を描いたかってことに関しては、描いてた。天保は知らんが、江戸時代の絵でああいう滑稽な絵はよくあるよ。図書館行けば幾らでもあるから見てみ。少なくとも画風でインチキというのは言えないと思う。
おもしろい!しかし飢餓によって食人してしまった記録は、東北などでもゴロゴロしている。私のご先祖の幾人かも、もしかしたら食人して飢饉を生き延びた。緊急避難措置ってやつですね。三浦哲郎なんかは食人の文献を調べ、「おろおろ草紙」という歴史小説を発表した。あれは面白かった。
これは事実だろ案外現実なんて、1回罪人とかで喰われちまえばそれが不思議と常識になるもんだ巻物の旅人を殺戮哉の後、零度冬?か?つまり食料がない過疎の村だったんだろうなぁ
これはひぐらしと似てるなひぐらしの舞台の雛見沢村は岐阜県の白川村をモチーフにしている あの合唱造があるところだ 長野県からは近いし山奥というところも似てるしこの紙に園という文字が書いてあったのももしやひぐらしの登場人物の中に「園崎」という姓を持つ家系があるというのに関係してるんじゃないか? 雛見沢村には昔、人食い鬼がいたという話もあるし
薩摩藩に伝わる「ひえもんとり」という死刑囚の亡骸から胆嚢を数人で争って取り出す、一種の競技兼訓練のことを思い出しました。「ひえもんとり」に参加するのは足軽以下のごく軽い身分の者で、競争者は互いを殺傷しないよう予め刃物を脱した状態で事におよび、先を争っては屍に群がり、罪人の亡骸から胆嚢などを取り出すことになるわけですが、競争者は刃物を所持していないため頼れる利器は己の歯のみ。文字通り死体にかぶりつき、そのまま口中にふくんだり、傷口から手を突っ込んだりして取り出すことになるんだとか。知らない人間から見れば「生肝を喰らっている」ようにしか見えないような光景ではありますね。んで私は、その事の誤伝(あるいは尾ひれの類)が上記のような「伝説」になったのではないかと推測したりしています。
こんなの、夜寝る前に見るんじゃなかったかも……。あっ、食事前じゃなかったから幸運ともいえるか……。
◇uraNews4VIP * 俺の先祖は恐ろしい人物かも知れない・・・いままで2ちゃんねるのスレを取り上げたことは殆どなかったと思うのだけど、これはあまりにも恐ろしすぎたので…読みにいく方は覚悟を決めてクリックして下さいね。そして途中で逃げ出さないこと。くれぐれ....
俺の先祖は恐ろしい人物かも知れない・・・ほんとうにどうでもいい話なんだけど。ちょっとヒマつぶしにいかが?
【俺の先祖は恐ろしい人物かも知れない・・・】こんな話題が相応しい時期になってまいりました…苦手ではないのですが三度の飯よりスキって事はありません。気になる人は是非その2まで読んでみてくだされ…苦手な人も読んでみてくだされ…ヒィィィィ
◆俺の先祖は恐ろしい人物かも知れない・・・ 胸躍らせ怖くても目を離せない展開から、衝撃のラストまで凄いことに。 1さん(ある意味)すごい。
マタ〜リ 徒然日記 紹介記事:家の先祖が人喰い!?“リアルひぐらしのなく頃に”【俺の先祖は恐ろしい人物かも知れない・・・】
いやーすげえの見つけちゃったよ。俺の先祖は恐ろしい人物かも知れない・・・良い暇潰しになったわ。面白かった!---一昨日書いた秘密基地サーバーのランキング、自分のデータ消去してくれないかと管理者に頼んでみたけど駄目だった(´・ω・`)仕方ないかー。同秘密基地サ・
日曜の朝っぱらから夫婦揃って一気に読んでしまいました。無駄な時間を過ごした感が無いのがスゲーなと思います。かなり秀逸です。是非一読あれ。
「習慣」なんて現代語じゃねーか確かに手の込んだ釣りだが歴史だの民俗学だの専攻してるとか言う連中まで揃いも揃って釣られすぎ釣りのクオリテ">:俺の先祖は恐ろしい人物かも知れない・・・2 (03/11)

 

[ 290] 一番恐ろしいのは機銃掃射
[引用サイト]  http://www5a.biglobe.ne.jp/~othibo/osorosii.html

  私は昭和16年(1941)4月、いまの墨田区にあった東京府立第七中学校に13歳で入学しました。その年の12月8日に日本はアメリカに対して宣戦を布告し、4年後の昭和20年(1945)8月15日に敗戦となったのは、皆さんもご承知のとおりです。  その頃の私は、戦況にはあまり関心のない、毎日の身の回りの出来事だけに埋没しているごく平凡な中学生でした。開戦後半年もすると、戦況がどんどん悪化し始め、それと共に現実の生活にも変化が現れてきました。「贅沢は敵だ」とか「パーマネント廃止」などというポスターが町に氾濫し、必需物資はつぎつぎに配給制に変っていきました。学校でも通学時はカーキー色の制服に戦闘帽、それにゲートル巻きという戦時スタイルに変ったのはいいのですが、家が学校から4キロ以内の者は徒歩通学に決ったのには困りました。教室でも常に前から数えて2・3番目にいた小柄な私にとって、朝夕の4キロの道のりはかなりきついものです。学校までの距離が実際に計ると3.8キロぐらいなのですが、4キロ強にして、これだけは特に自転車通学に変えてもらいました。  そして時間割通り毎日の授業を受けられたのは2年生までで、3年生からは道路の基礎普請などの勤労奉仕が始り、4年生からは通学ならぬ工場通勤となったのです。授業を受けられたのは勤労奉仕の頃は週1回、工場に動員されてからは月1回となりました。  現在、JR新小岩駅から中川を渡って国道6号線を横切り、JR綾瀬駅に通じている「平和橋通り」がありますが、新小岩駅から平和橋までの間の道路の下には、私たちが「もっこ」を担いで運んだ砂利がいっぱい詰っています。
「もっこ」とは、 藁などで編んだ大きな風呂敷のようなものです。その四隅の部分に天秤棒を通して2人で担ぎ、砂利や農作物を入れて運ぶ昔の運搬具です。
  昭和17年4月18日、私は学校から帰宅して2階の自分の部屋にいました。突然、地面を揺るがすような「どどーん」という大音響がしたので、慌てて二階の屋根の上の物干台に登ると、北西の方角に茶色を帯びた黒煙が空中高く舞上がっているではありませんか。同じ荒川区内にある軍需工場の方角だとすぐ判りましたが、空襲警報は鳴っていなかったので爆撃か事故爆発かそのときは分りません。その後米軍による奇襲攻撃だと報道されましたが、私たちの住んでいる神国日本が、戦争とは言いながらまさか爆撃されるとは、まったく思いもよりませんでした。  これを皮切りに昭和19年暮頃より本格的な空襲が始るのですが、それまでの約2年間はどちらかと言えば悠長な気分が漂っていたように思います。勿論、これは私だけの考えだと思っていますが・・・。
  学徒勤労動員で働くようになった工場は大日本兵器株式会社と言います。名前の通り兵器である20ミリ機関砲の弾丸の部品を製造している会社で、火薬を充填し砲弾に仕上る作業はここではやっていませんでした。20ミリの弾とは当時の最新鋭の弾丸で、弾自体のなかに火薬が入っていて、命中すると爆発する非常に破壊力があるものです。完成品は長さ30センチメートル近くになる大きなもので、部品は弾頭、信管、薬莢の3個からなり、専門の工場でそれぞれ製造していました。
  薬莢 (やっきょう)弾頭を発射させるための火薬を詰める真鍮製の筒。信管と反対側の弾頭に固定され、銃砲の中で、底にある雷管の部分を打つと、火薬が爆発し弾頭が発射される。
  この工場は東京の下町、昔の吾嬬町だと思いますが、柳島方面より十間橋を渡った右手の、北十間川に面した一角にありました。現在の文化一丁目付近ではないかと思います。ここへ通うのに、かなり遠回りになりますが、常磐線三河島駅から上野駅へ、そこから浅草、押上を通る当時の路面電車に乗って終点の柳島まで、勤労動員学徒として約1年間この工場へ通う生活が続きました。
  最初に配属されたのは信管工場でした。信管は真鍮の棒を削ったり刳りぬいたり、ネジ立てや穴をあける軽作業のせいか女性が多く、そのほとんどが福島県からきた女子挺身隊の若い女性で、真赤な日の丸の中を「神風」 と染抜いた鉢巻を頭に締め、きびきびした動作で働いているのが印象的でした。そして慣れぬ私たちを親切に指導してくれるのですが、初めて経験する女性だけの異様な雰囲気に私はすっかり圧倒されてしまい、オシャカ(使えない不良品)ばかり作って恥かしい思いをしました。暫くして配置転換になり、工場の隅にある材料係に回されたときはほっとすると同時に、心の片隅に小さな風穴が開いたような、今まで経験したことの無い気持にひたされたのも覚えています。  大きな変化は夜勤制でした。確か夜8時から翌朝の6時までだと記憶していますが確かではありません。試験勉強でも徹夜したことがないのに、それが1週間交替で続くのです。最初は昼間眠ることができず、仕事をしていても眠くてたまりませんでしたが、16歳の若い体はすぐに慣れます。それより夜半の休憩時間に月明りを頼りに、「駆逐・水雷」という帽子を取りあうゲームというより運動に近い遊びに大勢の仲間たちと夢中になったり、また広場の草の上に寝転がり、下界の灯火管制で一層際立って見える満天の銀粉の上を、いくつもの流星が尾をひいて飛交う幻想的な夜空を飽かずに見入っていました。そして警戒警報の薄暗がりの中で渡す食堂の食券を、ペンで偽造して夜半の食事を2度食べるスリル。また昼勤から夜勤に移る1日の空きを利用して訪れた初冬の高尾山の静けさ、ケーブルカーの線路は供出のために撤去されて無くなり、その跡のコンクリートの橋脚の上を友人と2人で頂上まで歩いて登った記憶など。これらのことは戦争そのものの記憶と共に、いやそれ以上かもしれませんが、今でも私の脳裏に深く刻み込まれています。
  米軍の最新鋭爆撃機ボーイングB29の姿を私たちが東京の空に初めて見たのは、確か昭和18年の初冬の頃だったと思います。澄みきった青空のものすごい上空を、白い飛行機雲を一直線に曳きながら、特徴のある微かな爆音を残してゆっくり進んで行く銀色の小さな機影を、異様な思いで眺めていたのを記憶しています。今でこそ飛行機雲は子供達でも知っていますし、いつでも見ることができますが、当時はほとんどの人が始めて見る光景ではなかったでしょうか。私には美しいとさえ思われたそのB29は、後の東京爆撃に備えて10,000メートルの上空からそのとき写真撮影を行っていたのです。このようなB29による偵察飛行はそれからたびたびありました。B29が地上と75度の角度のとき爆弾を落すと、その飛行機がちょうど頭の真上に来たときに爆弾が地上に落下する、だから敵の飛行機の進行方向が自分の方を向いてないときは安全だ、などと角度を右手で示しながら説明をする人の話が納得できるほど、まだまだ悠長な気分が漂っていました。  その後まもない頃だと思います。 当時の日米の航空技術の差は大きく開いていましたが、10,000メートルの上空を飛行している1機のB29に攻撃を加えている、米粒のような2機の日本の戦闘機との空中戦を目撃したことがあります。勿論、空襲警報下のことです。当時は空襲警報といっても1機か2機のB29の偵察飛行が多く、爆弾が落ちてくることもなく危険ではないので、誰もが首が痛くなるほど空を見上げていたものです。  その時も白い飛行機雲を曳きながら直進しているB29めがけて、米粒のように小さく見える日本の戦闘機が接近しては攻撃し、また反転しては攻撃を繰返しています。しかしB29は進路も速度も変えず、ゆうゆうと飛んでいるのです。銃口からの閃光は見えず、音もぜんぜん聞えず、まるで無声映画でも見ているような、ほんとに手に汗を握る光景でした。B29からいつ煙が吹出すか、いつ墜落するかと誰もが息を呑んで待っていたはずです。  その時です。米粒のうちの1機が突然急降下しはじめました。確か機体から煙は出ていなかったと思いますがよく覚えていません。ただ一直線に物凄い速さで落ちてくるのです。ほんの数秒間だったような気がします。みるみる機体は大きくなり、両翼の真赤な日の丸をくっきり見せたまま機影は屋根瓦の波の向うに消え、直後に真白な水煙が立ち昇るのをこの眼で見ました。  その時は家から2・3キロしか離れていない荒川放水路に墜落したのが当然のように思っていましたが、よく考えるとどこへ墜落しても不思議ではないのに、よく町の中に落ちなかったものだと思わざるを得ません。その時、もし下町の密集した人家のなかに落ちていたら大惨事になっていたところです。おそらく操縦士は消えかかる意識の中で戦闘機を必死に操り、荒川放水路めがけて墜落して行ったのだと、私は確信しています。
この項の最初のボーイングB29は、最初ノースアメリカンB29と書きましたが、誤りと指摘を頂きましたので訂正しました。
  B29による偵察飛行が途絶えて、やれやれと思う間もなく、爆弾と焼夷弾による東京空襲が、現実のものとして我々の前に姿を見せ始めました。昭和19年11月の台東区その他の地区の大規模な空襲を皮切りに、連日のように東京は空襲にさらされ、翌年3月10日未明の東京大空襲、そして広島、長崎の原爆投下と続き、敗戦への道を辿ることとなるのです。
  昭和20年に入った頃、私は工場の一番南の端にある北十間川に面した弾頭工場に配置換えになっていました。屋根の形が鋸の歯のように続いた大きな工場の中に、巾が4メートル以上もありそうな自動機が幾十台も並んでいます。すべての加工は自動なので、できあがった弾頭の寸法をゲージで検査することと、材料が終りに近くなったとき、3メートルほどの長い鉄の丸棒を機械にセットしてやることが私たちの主な仕事でした。 
そういう仕事についているうちにも、東京のあちこちは空襲にやられて焦土と変ってゆき、「一億玉砕」とか「本土決戦」などという標語が流行語のようになり、日本がどうなってしまうのか分らない不安に、誰もが戦のいている状況が続いていました。私の場合でいうと、今ごろ我々素人が作っている弾丸など果してこの戦争に間に合うのだろうか、といった単純な疑問は抱くことはあっても、今お国のために働いているのだという昂揚した気持などまったくありませんでした。 
昭和20年3月9日の夜はちょうど夜勤でした。2・3日前に降った雪が道路の隅に汚れて残ったままの北風の強い寒い夜で、私たちは学生用の外套をまとって出勤していました。警戒警報のサイレンが鳴ったのは9日の夜10時半頃だったと思います。いつものように工場のすぐ外側の北十間川にそった塀の傍らの防空壕に入り、ラジオから流れる東部軍管区情報に耳を傾けていました。「南方洋上ヨリ敵ラシキ数目標、本土ニ向ッテ接近シツツアリ」という最初の放送が始り、いつ敵機がやってくるのか緊張していましたが、房総半島に向って接近中とか、目下、房総半島の海岸付近にありなどと言うばかりで、いっこうに侵入してくる気配はありません。そういう放送が30分ほど続いたでしょうか、最後に「洋上ハルカニ遁走セリ」を繰返して終ったのですが、それから警戒警報が解除になり、たぶん仕事に戻ったのだと思います。 
物凄い爆音に気がついて工場から飛出したとき、墜落するのではないかと思うばかりの巨大なB29が、頭のすぐ上を幾台も並んで轟々と通過していました。視界一杯に広がったB29の編隊が、わたしの眼の底に焼ついているのですが、いまどうやってそれを表現したらいいか、もどかしさを覚えます。ありうべからざる異常な光景でした。地上からの探照燈の光りと、燃えている街の炎の明りに反射し、鉛色に浮び上がったB29の腹の弾倉の扉が開くと同時に、胡麻粒ほどの焼夷弾がぱらぱら落ちてくるのがはっきり見えるのです。それほどの低空でした。するとその方角の空がたちまち真赤に染まります。空襲警報のサイレンは鳴ったといいますが、私には聞えませんでした。B29の編隊は途切れることなく続いています。北十間川の向う側の本所、深川の空は既に真赤です。私たちは悪夢を見ているように茫然とそれらを眺めているだけでした。そのうち上空からひらりひらりと左右に舞いながら、私たちに向って落ちてくる大きな物体に気づきました。どこへ逃げても右往左往しても私たちに向ってきます。いざというときには防空壕の中に飛込むつもりで私は必死でそのものの行方を追っていました。幸い隣の北十間川に落ちましたが、それは日の丸のついた戦闘機の片翼でした。 
私のすぐ身の回りには落ちませんでしたが、そのうち工場にも焼夷弾が落下し始めました。高い天井から下がっている暗幕が真先に燃え出したので、これは皆で引落し足で踏んで消しましたが、機械の横で火炎を吹いている焼夷弾は1杯や2杯のバケツの水ではとうてい消えるものではありません。軍需工場のせいかいつのまにか消防自動車も来て消火に当っていました。次第に工場全体が炎に包まれるようになって私たちの手には負えなくなり、消防手たちがホースを巻き始めたのを見て、幾人かの友達と工場の裏門から外に出ました。そして夜空の黒い方、黒い方へとさまよいだしました。3月10日の午前2時頃だったと思います。 
後で分ったのですが、私たちはほんとに幸運だったとしか言いようがありません。工場の裏手に続く昔の吾嬬町界隈はまだ焼夷弾にやられてなかったので、炎を避けて避難する道が自然に通じていました。ところが工場の隣の北十間川の向こう側一帯から、東京湾までの今の墨田区、江東区のほとんどの全域で、丁度その時間、焼夷弾攻撃で逃場を失った多くの人々が、炎で焼かれ亡くなっている最中なのでした。焼夷弾でも直撃を受ければ頭でも肩でも吹飛んで即死です。そういう危険な目に遭わなかった私は幸運だったと同時に、焼夷弾の真の恐ろしさを知らないといえるかもしれません。 
とにかく道路という道路は避難する人々で真直ぐ歩けないほどごった返していました。ほとんどの人が大きな荷物を背負ったり手に下げたりしています。幼い子供と家具を満載したリヤカーが動けない状態で行悩んでいるのを見たとき、体一つが一番いいのにと感じたのですが、家を捨てて避難する人にとっては少しでも家財を持出したいのは当然かもしれません。吾嬬町界隈の狭い曲がりくねった道を迷いながらやっと明治通りに出ると、物凄い北風が吹荒れていました。体が前に倒れるほど前傾させて歩いても、押し戻されそうな強い風でした。もともと強かったその夜の北風が、火災による上昇気流で一層激しさを増したものでしょう。白髭橋方向へ体を折り曲げながら進むうち、風に混じって雨のような冷たい雫がほつぽつ顔に当りだしました。そんなに長い時間ではありませんでしたが、周囲の人の中に「ガソリンだ。アメ公のやつ、ガソリンを撒きやがった!」と叫んでいる男がいます。あまり臭いがしなかったので私は「まさか?」と思いながら、ほんとかもしれないと感じていました。 
誰もが家を捨てて命からがら逃げているのです。その無人の家屋に焼夷弾が落されれば、物凄い風に煽られてたちまち燃えあがります。そういう家屋を遠くから見つけて、風の方向を確めながら燃えているところを避け、右に曲ったり左に曲ったりしながら、ただ炎を避けて明治通りの周辺を長い時間さまよっていました。 
どこをどう歩いたのかまったく分かりません。気がついたときは堤通りの、墨田公園の入口に近い川添いの工場の事務所にいました。同級生10人ほどと一緒でした。あるいはもっと多かったかもしれません。先生も1人混じっていたような気がします。さまよっているうち同級生たちと出会い、先生にも会って、この無人の事務所に入ったのだと思います。あたりは静かになり、空襲は終っていました。窓越しに見える対岸の今戸の高射砲陣地から、ときどき発射される爆発音の「ドーン」という響きが、なにか空しい感じであたりの空気をふるわせています。薄汚れた顔の同級生たちは皆疲れきった表情で呆然としていました。私たちは黙りこくっていたわけではなく、体験のいくつかを喋りあったはずだと思うのですがまったく思い出せません。或いは一晩中さまよった疲れと、強烈な体験の後なので話すのも億劫になり、ほんとに沈黙していたのでしょうか。仮眠しながら私たちはここで夜の白らむのを待ちました。
3月10日未明の東京大空襲の夜、ガソリンらしい液体が撒かれたのは事実のようです。後の記録を読むと、避難する人々の中に臭いなどから間違いなくガソリンで、それもゼリー状だったと言う人が多くいるそうです。
  時間は何時ごろだったでしょうか、明るくなってから私たちは事務所から出ました。その後の打合せなどを済ませてからだと思いますがまったく覚えていません。当時の記憶は鮮明に残っている部分と、消えて無くなっている部分がはっきり分かれているので、状況を繋ぎ合わせながらいくら思い出そうとしても、どうしても記憶は戻ってこない個所があるのです。 
私の家は荒川区にあったので白髭橋を渡りました。しかし、事務所で一緒だった同級生からその後聞いた話では、浅草方面に家がある同級生が渡った一つ下流の言問橋は、橋の上全体が黒焦げになった死体と焼け爛れたリヤカーや荷車などで埋めつくされ、それを跨いだり横にずらしたりしないと通れなかったそうです。白髭橋はそのようなこともなく、明治通りを泪橋、三ノ輪を過ぎて、道路が1キロほど真直ぐに見通せる今の荒川警察署のある付近まで来て、我家に曲るあたりの家並が焼け残っているのが見えたときはほっとしました。しかしその先は焼けて跡形もなくまだ白い煙が上がっていました。そこまでの道筋で何箇所か焼けている町並がありましたが、明治通り添いのほとんどは焼け残っていたような気がします。ただ、今でも不思議に思うのですが、歩いて帰る途中ずっと人の姿に出会った記憶がないのです。無人の荒野を一人とぼとぼと歩いてきた感じだけが強く残っています。そんなことはないと思いますが、これも私の脳裏につぎつぎに入ってくる印象が強くて、その他は消えてしまったのかもしれません。 
家の前に通じる4・5メーター巾ほどの道路を曲り、途中クランク形にゆるやかにカーブしているところを通りすぎた途端、私は愕然としました。その先にあるはずの懐かしい家並は消えて、茫々とした無惨な焼跡が広がっているではありませんか。家の前の道路と直角に交差している道路を境にして、その先だけ綺麗に無くなっているのです。焼けた我家とはたった100メートルの距離しか離れていません。幼い頃からの私の宝物も一切合切灰になってしまいました。しかし一瞬見慣れぬ光景に動転したものの、当時としてはこれでやっと人並になったか、という程度の驚きしか感じなかったのを記憶しています。それほど被災している人々が周囲に多かったということでしょうし、それに私の一家はこの年の1月に茨城県土浦に疎開して、東京に残っていたのは私だけだったので、家族の安否を気遣う事も無かったのも影響しているのかもしれません。 
家族の疎開後は、町工場だった家に私一人が住んでいたわけでなく、留守番として父のすぐ下の弟の叔父一家が住み、父の従兄弟に当り既に家族を疎開させていたAさんと一緒に世話になっていました。おそるおそる我家とおぼしいあたりに近づくと、まだ硝煙の臭いがものすごい焼跡の一角から「焼けちゃったよぉ」という声と共に立ちあがったのは、戦闘帽の上から手拭で頬かぶりしたAさんでした。話によると昨夜同じ頃に焼夷弾に見舞われ、何発か消し止めたものの無人の工場まで手が回らず、そのうち炎に巻かれそうになったので逃げたということです。幼い子供を抱えた叔父一家も避難して全員無事でした。 
3月10日は叔父一家が避難している近くの小学校で、配給の乾パンで飢えをしのいだり、罹災証明書の発行を受けたりして、その夜は学校に泊ったのだと思います。
  炎に巻かれながらよく気が付いたと思いますが、Aさんは私の自転車も一緒に持出してくれました。幼いころからの思い出が沁みこんだいろいろな道具や本は一切灰になってしまい、これだけが私に残ったただ一つの財産となりました。その自転車に乗ってAさんと共に工場の様子を見にいったのは11日の午前のことです。 
走り始めてすぐ、焼けた我家から200メートルほど離れている常磐線のガードをくぐった時でした。いつもだったら見えるはずのない浅草の松屋デパートが、まず眼に飛込んできたのにはびっくりしました。屋上に近い階から白煙が上がり、見渡すかぎりの焼野原のかなたに松屋だけがぽつんと立っている異様な光景は、カメラのシャッターを切ったままのように今でも鮮明に脳裏に焼付いています。 
焼野原が続く三ノ輪から浅草に通じている道路まで来たとき、道路添いに大きな伽藍が一つだけ焼け残っていたのが印象的でした。あとで西徳寺という寺だと知ったのですが、見れば勾配の強い屋根の真中に焼夷弾の突きぬけた小さな穴がぽつんとあいています。そしてすぐ前の道路には路面電車の焼けた残骸があるというのに、あの強い風の中でよく類焼しなかったものだと思いました。焼夷弾の落ちる時間の差とか、風向きとか、消火活動が良かったとか、さまざまな条件が重なって焼けなかったのだろうとAさんと話したのを覚えています。 
浅草雷門のあたりから、あちこちに人の焼けた死体が目につくようになりました。まるでマネキン人形のような丸くて真黒な坊主頭が、手足を薪のようにこわばらせて道路際に無造作に転がっています。男女の性別はまったく分りません。防火用の水槽の中にしゃがんだような格好で座った人の上半身は焼け焦げているのに、下半身に衣服がまだ残っているのを見たとき、あまりの無惨さに二度と眼を向けることができませんでした。無惨というより頭の中が真白になった感じです。戦争の恐ろしさは当然のことながら、そのときの私は人間のはかなさに心を奪われていたような気がします。吾妻橋の下の隅田川には溺れて亡くなった人がまだ幾体も残っていました。蛙のように膨らんだ腹に大切なものを巻きつけたもんぺ姿の女性が仰向けになって、焼けた木材などと一緒に漂っています。それでも昨日はトラック何台もの水死体が収容されたということでした。 
押上駅に向っても同様な情景がえんえんと続いていました。工場は完全に焼け落ちていました。一昨夜どのあたりで仕事をしていたのかまったく見当もつきません。傍らの北十間川では、数人の人が長い竹竿の先につけた鳶口で水死した人を引揚げているところでした。それを見たとき、もし工場を逃出すのがもう少し遅れていたら、炎の熱さに耐えきれず私たちも隣の川に飛込んでいたかもしれないと思うとぞっとしました。そして消防手たちがホースを巻き始めるのにもし気がつかなかったら・・・、工場を脱出する前にもし吾嬬町一帯に先に焼夷弾が落ちていたら・・・と考えてくると、人の生死を分けるきっかけはどこにあるのかまったくわからないと思いました。 
3月9日から10日未明にかけての空襲で、約8万人の方が亡くなり、東京の下町の大部分が焦土と化しました。そして東京の焼け残った町や、主要な地方都市にたいする空襲も4月になるとますます激しさを増してきたのです。
  3月10日の東京大空襲の後、どうやって過していたか詳しいことはよく覚えていません。当時は短期間にめまぐるしく環境が変っていたので思い出せなかったり、記憶が繋がらないことがたくさんあるので、確実なところだけ書いていきたいと思います。私たちは第七中学校を4年生で強制的に卒業させられ、学校も3月10日に焼けたので卒業式もなく、同じ荒川区内の尾久にある父の友人の家に同居させてもらいながら、神田にある電機高等専門学校へ通い始めていました。しかしそれも束のまのことで、4月13日夜の空襲で城北から都心にかけての焼けていないところがほとんど灰燼に帰し、その夜私は再び炎に追われながら愛用の自転車と共に尾久駅の裏手に広がっている操車場に避難しました。そして翌日この自転車に乗って茨城県土浦に疎開していた家族のもとに帰ったのですが、この6号線を走った4時間の行程のあいだ、いまでは想像もつかないことですが、1台も自動車に会わなかったのがちょっと異様な経験だったのでよく記憶しています。 
この頃第七中学校から召集がかかり、上級学校に進学した者もしなかった者も、それまでの中学校の指示にしたがって再び勤労動員されることとなり、私たち全員はそれまでの大日本兵器株式会社の疎開工場である、神奈川県瀬谷の薬莢工場へ配属となりました。今の相模鉄道瀬谷駅の付近ではないかと思います。そこは相模原台地の松林の中の一角に建てられた木造の工場や寮で、全体にこじんまりとしているので、遠くから見ると一般の住宅がたち並んでいるような感じでした。それまでの下町にあった工場にくらべると、比較にならないほど環境抜群なところでした。全員が寮生活で夜勤はなく、作業の終った後の自由時間には、相模原の夜空に浮ぶ朧月の下でよく青春の夢を語りあったものです。 
私たちの仕事は真鍮のパイプを絞ったり切断する簡単な軽作業でした。ただ近くに海軍の厚木飛行場があったため空襲警報は頻繁にありました。艦載機の攻撃が主で、直接には見えませんが爆弾がほとんどのようです。艦載機が松林のてっぺんのあたりから急降下を始め、松林の影に見えなくなったかと思うまもなく物凄い爆発音が轟きます。艦載機は我々の工場に気づかないのか、工場が直接攻撃を受けることはなかったので慣れっこになり、防空壕の外に出て見ていたときのことです。飛行機が急降下するキーンという爆音が聞えたのとほとんど同時でした。機関銃の連続した発射音とともに、私たちの2・3メートル先の地面に1メートルぐらいの間隔で、銃弾が土煙を巻上げて突き刺さって行くのです。皆さんも映画でご覧になったこともあると思いますが、ほんとにそのままの情景です。心臓が縮み上るとはこの時のことを言うのでしょう。私たちは悲鳴を上げながら我先に防空壕に飛び込みました。競泳で合図のブザーで一斉にプールに飛びこむように、ジャンプして頭から飛びこむのです。艦載機は急降下しては銃撃を何回か繰返していました。 
飛行場の爆撃を終えて帰る途中の艦載機が、松林のあいだに動く人間の姿を見つけ、おもしろ半分に機関銃を発射したとしか考えられません。殺傷するのが目的だったらもっと執拗に攻撃してくるはずです。いづれにしても我々にとっては生死に関る問題です。幸い怪我人は出ませんでしたが、あのように恐ろしい目にあったのは生まれて始めての経験でした。機銃掃射はどこから撃ってくるのか予想がつかず、急降下のエンジン音が聞えたときには既に射撃の対象となっているのが恐怖感を煽られる一番の原因ではないかと思います。このあと何回か機銃掃射を受けましたが、それからは皆防空壕の中で警報の解除になるまで神妙に待ちました。 
しかし相模原台地での生活も長くは続きませんでした。5月には横浜が空襲を受け夜空が真赤に染まるのを宿舎の窓から皆で眺めていました。その後6月になって間もないころ、突然中学校時代の組織は解散され、再びそれぞれの上級学校に通学してもいい事になりました。弾丸を作る材料がなくなったのか、それとも私たちに弾丸を作らせる必要がなくなったのか解りません。おそらく工場は閉鎖になったのでしょう。私たちはこの瀬谷の寮から銘々それぞれの方角に、今後の生死すらわからない自分たちの生活を始めるために別れて行きました。それぞれの都合に合わせて、ぽつりぽつりと一人か二人づつ居なくなる淋しい別れでした。
  瀬谷の工場から戻ってから我家が再疎開するまでのほんの短い間ですが、土浦市内の我家から東京の学校まで通学していたことがあります。というのは7月のはじめ頃、土浦航空隊が近くにあったため艦載機の攻撃が激しくなってきた土浦から、再び我家は福島県釜の子村(現在の東村)に疎開して行ったからです。 
通学していたこの時だったか、 3ヶ月ほど前瀬谷の工場に再動員される前だったか忘れましたが、今ではできないような経験をしたのが懐かしい思い出となって残っています。 
当時の常磐線はまだ電化されておらず、上野駅から出発する列車の本数も少ないため、疎開する人や買出しにゆく人、その他さまざまの人々でどの列車もいつも超満員の状態でした。窓から出入りするなどは日常茶飯事のことで、その日はどこからも車内にもぐり込めず、しかたなく列車の前の方に歩いてゆくと機関車の後の石炭を積む場所に、連結器のあたりからよじ登っている男がいました。それを見て、咄嗟に私も続いて登りました。周囲には7・8人の男がいたような気がします。やがて列車が動き出してびっくりしました。物凄い横揺れが始りました。回りの鉄板に必死で掴っていないと振り落されそうです。が、利根川の鉄橋を渡り取手をすぎる頃になると、やっと周囲の景色を眺める余裕が出てきました。藤代、佐貫あたりののどかな田園地帯が広がり、目線の位置が高いせいかいつも見ている風景とはまったく違って見えます。そんなに速いスピードではありませんが、横揺れが一つのリズムのようになって機関車はぐんぐん走っています。。正面の煙突から出る油煙に含まれている石炭の燃え滓に注意しさえすれば、正面からくる強い風もあまり苦にならず、かえってすし詰めの車内に居るよりずっと爽快でした。
ところが、牛久駅か荒川沖駅のどちらかに停車したとき、機関手が側にやってきてその場所から下りて車内に入るよう指示されました。機関手は出発する前からわれわれが乗っているのを知っていたのです。それを状況から見てやむを得ないと判断し、車内がいくらか空くまで黙認していたのでしょう。それからも何回か機関車の上に乗りましたが、出発する前に機関手から追出されることがほとんどでした。だから最初の時の機関手が思い遣りがある人だったからこそ変った体験ができたのではないかと今では感謝しているくらいです。 
家族が福島県の田舎に行ってしまったので私は再び東京に舞戻り、すぐ近くで焼け残った父の古い知合いで、家族は疎開させて一人で残っている人のところに同居させてもらい学校に通っていました。ところが食糧難に加えた栄養不足のためか、まもなく大腿部の内側に激しい湿疹を起し、痛みで歩くのも困難になってきました。御茶ノ水の大きな病院で診察を受けたら、清潔にしていないのが原因だからしばらく通院するよう言渡されたのには困りました。ほんとの一人での生活はそのときが初めてです。このへんの記憶はほとんどないのですが、まともに食事など取っていなかったでしょうし、銭湯も焼けたり休業だったりで、風呂へなど入ったことも無かったでしょう。一番心配だったのは金が次第に心細くなってきたことです。痛みは激しくなる一方なので、学校には届を出し遂に家族のもとに帰る決心をしました。8月に入ってまもなくの頃だったと思います。上野駅で何時間も待ち、やっと乗った満員の列車に6時間近くも揺られて白河駅に着いてから、痛む足を引きずり、1枚の地図を頼りにして10キロ以上離れた初めて見る新しい疎開先に、よく帰れたものだ自分ながら感心しています。 
父は翌日、同じ福島県内にある湯岐(ゆじまた)温泉というところに私を連れて行ってくれました。水戸から郡山に走っている水郡線の「いわき棚倉駅」まで3里(12キロ)の道のりを歩き、そこから水郡線で三っ目の「いわき塙駅」で降りてからまた3里歩いた辺鄙な山の中にありました。現在地図で見ると一つ先の「東館駅」で降りたほうが半分以下の距離のところにありますが、おそらく父が見た昔の案内書には「いわき塙駅」より3里と書いてあったのでしょう。 
ここは小さな旅館が2軒あるだけの、近隣の農家の人が農閑期によく利用する痛風とか高血圧に効く昔からの湯治場ですが、そのうちの山形屋という宿に入りました。まだ8月だというのに夕暮になるとかなかな蝉の鳴声が聞こえてきます。空襲警報も燈火管制も無い別天地でした。当時はどこに泊るにも食料の米が必要でした。確か1日3合ぐらいの割合だったと記憶しています。父は翌日あわただしく帰ってゆきました。 
ここの浴槽は4帖半ぐらいの大きさで、足もとの岩の間から温泉が湧き出し、岩で囲った浴槽の縁に中央がへこんだ石の枕がいくつか付いているのがちょっと変っていました。入ってみて判ったのですが、温泉の温度が人間の体温とほとんど同じなので、長い時間入っているために用意された枕だったのです。湯治に来ている人は2・3時間は普通で、中には一晩中石の枕に頭を凭れさせながら湯に漬かっている人もいるということでした。初めてこの温泉に入ったとき、私は薄暗い灯りの中で誰もいないのを確めながら、こわばりついた腿の包帯をそろそろと剥したのをつい昨日のように思い出します。そして目を閉じて温泉に漬かっていると体がまるで宙に浮いているような感覚に誘われながら、ついこのあいだまでは猛火の中を逃げ回ったり、機銃掃射に曝されたことが何か遠い日の出来事のように感じていました。 
戦争が終ったのを知ったのは8月16日の朝、下の村から登ってきた新聞配達夫が「日本は負けたらしい」と宿の人に話しているのを聞いたときでした。このあたりの新聞は1日遅れだったのです。そのとき戦争が終ったのをどう感じていたか、釜の子村の疎開先にいつどうやって戻ったか、そのあたりはまったく思い出せません。とにかく疎開先から再び東京に出て、新しい近くの知人の家に下宿しながら学生生活を続けていきました。
  これで「一番恐ろしかったのは機銃掃射」のページはいったん終ります。また折を見て「その後の私」を書きたいと思っています。私はインターネットを始めてまだ1年にもならないまったくの初心者なので、最初、皆さんのように美しいホームページは作れないし、また、ホームページにこのような活字スタイルの文章を載せても、はたして皆さんに読んで頂けるかどうか迷いました。ただ、今まで家族にも誰にも話たことのない私の青春期の体験を、どなたかに聞いて頂きたいという望みが次第に強くなり、活字にすることも考えたのですが、新しいメディアとしてのホームページに書くことを思い立ちました。
この拙ない文章の最後までお付合い頂いた方には、ほんとに心からお礼申しあげます。そして、こういう点が読み辛らかったとか、こうした方が良いとか、どんなお言葉でも結構ですので、

 

[ 291] 本当は恐ろしい「みんなのうた」
[引用サイト]  http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Miyuki/2805/others/honto.html

しかし、ここで歌われている歌に隠された本当の恐怖を私たちは何一つ知らないのかもしれない…(本気にしないように。)
どこかの心ない少年にヒゲを切り逃げ去れた哀れな子猫「ゴゲジャバル」の為に猫たちが村を挙げて彼のヒゲが再び生えてくるよう祈りを捧げるという曲である。
よく考えてみればいくら猫にとって一大事とはいえ、ヒゲはまた生えてくるものであり、数珠をかけ伏して祈る程の対象とは考えにくく、この大騒ぎは得心しかねる。
ヒゲとは男性のシンボルである。中近東諸国においてもヒゲを生やしていない男性は子供もしくは男性にあらざる男性と見なされることからも、この認識は世界的に見ても一般的である。
ゴゲジャバルは「やどなし」の「わらしねこ」である。従ってまだ子供である「ゴゲジャバル」にはヒゲはない。これが何を意味するのかを考えてみよう。
両親を亡くした「ゴゲジャバル」は陰惨極まりないいじめの対象となっており、ついには心ない少年たちの手によって性器を切断されるという最悪の事件にまで発展した。
まだ幼い「ゴゲジャバル」には事の重大さが正確には把握できていない。そんな彼の周囲の大人たちが慌てながらも、救いの手を差し延べながらも、為すすべのない悲劇に心を痛める様を歌っているのである。
現代社会の歪みが生んでしまった取り返しのつかない悲劇の被害者に対して大人たちができるのは「ハイホーハイホー」と祈り続けることだけなのだ。
なんでも知っている物知りなおばあちゃんをコンピューターに見たてた名曲であるが、この歌の背景には悲しい現実がある。
この明治生まれのおばあちゃんは孫に算数,国語,社会なんでも質問されるほどに孫と親密な関係を築いている。また、この博識なおばあちゃんはこれらの質問に些かの迷いもなく答えていることから「コンピューター」と孫に称されていることが窺える。
しかしながら、明治生まれの女性でこれほどまでの幅広い知識を持っている人物は稀有である。このことからもこのおばあちゃんがかなり裕福な育ちの女性であることは明らかである。
この家庭が共働きの二世帯住居であること、おじいちゃんは既に他界していることなどが歌詞から推測されるが、出自が裕福であった筈の祖母が共働きの家に暮らすことから、この家庭では祖父が他界したことにより多額の相続税を支払う必要に追われ、やむなくもともと裕福な家に嫁に来た筈の母親が働かざるを得ない状況に追いやられていると言う状況が見えてくる。
わざわざ孫が他人と区別してまでおばあちゃんを「大好き」というからには、主人公の母親である嫁との間に壮絶な嫁姑問題があることはまず間違いない。
つまり母親も働きに出ているため、主人公は所謂「おばあちゃんっ子」となっており、祖母をコンピューターと崇めているのである。
あまり知られていない曲だが、天使が洗濯したパンツが風に飛ばされ、探しまわるが見つからず最終的には人魚が着用しているというシュールかつコミカルな歌である。
また、穢れのない生物である筈の天使が洗濯をしている背景にはどのような特殊な事情が隠されているのであろうか?常人には想像もつかないほど複雑かつ淫猥な事情が窺える。
アニメーションがデフォルメされた画像だったため恐怖心が喚起されなかったが、これをギーガー作画で再現すればその不気味さが浮き彫りとなることは間違いない。
元気がなくなってしまった少年をいつも一緒に遊んでいる近所のおねえさんが心配するが、実はお母さんが田舎に帰っていたため元気がなかったことが判明する、という微笑ましい話である。
子供のツトムに大人の事情などわかるはずもないが、子供心に「おかあさんはもう戻ってこないかもしれない」と懸念していたことは一人遊びをしながら物思いに耽っていた様からも推測できる。
しかも母親が家を出ていた時間がかなり長い期間だったことは「いつも」「あとで」と断られるという表現からも明らかである。

 

[ 292] 不思議館〜海にまつわる恐ろしい話〜
[引用サイト]  http://members.jcom.home.ne.jp/invader/works/works_10_c.html

命の尊さを口にする時、その資格のある者、それは、過酷な運命に否応なく翻弄され、地獄のような環境を体験し、生還することの出来た人間のみに与えられるものである。偶然と幸運にだけ恵まれ、からくも生き長らえることの出来た人間の証言。まさしく、その中にこそ、求められる恐ろしい真実がある・・・
太平洋戦争も押し迫った昭和20年、7月・・・絶望的な戦局の中、密かに敵通商路破壊の任を受けてグアム沖を航行する一隻の潜水艦があった。
その潜水艦・・・日本海軍の中でも、最新のレーダーを装備した伊58号は、艦首に6本の発射管を持ち、水上飛行機を搭載した大型潜水艦として知られていた。しかし今は、戦局の悪化にともない飛行機は取り外され、代わりに6基の人間魚雷「回天」を搭載する潜水母艦に変わり果てていた。
この頃、ヨーロッパでは、日本が唯一頼みとするドイツが、三方を敵に包囲され孤軍奮闘した挙句に、ヒトラーがベルリンの地下総統官邸で自決し、連合軍に無条件降伏するという悲劇的な結末に終わっていた。かくして、最大の友邦国ドイツが壊滅してしまった今、残された日本は押し寄せる圧倒的な数の連合軍をただ一人で相手にせねばならなかった。
伊58号は、雲と波以外に何も見えない大海原を、敵の姿を追い求めてひたすら進路を西にとっていた。月は次第に欠け出し、海上はまるで油を流したようにねっとりとした様子になっていた。
やがて、はるか前方をまっすぐに向かって来る正体不明の艦影を発見した伊58号は、ただちに急速潜航した。時に午後11時8分、海上には波はなく、東の空に昇っている月の明るさは、水平線をくっきりと浮かび上がらせ、水中での攻撃を可能にしていた。
前方に砲塔が連なり、その後ろには相当大きな艦橋がそびえたっているシルエットは、かなりの大型艦であることを物語っていた。
獲物が戦艦だと悟った伊58号の艦長は、はやる心を抑えながらさらに肉薄した。そして、至近距離までつめ寄ると一発必中の構えで6本の魚雷をつるべ打ちに発射した。
グンッと鈍い衝激が艦内に伝わり、3秒間隔で次々と魚雷が撃ち出された。魚雷は白い航跡を残して扇状にひろがり水中をまっしぐらに突進していく。後は殺気立った時間だけが過ぎ去ってゆく。乗員は固唾を飲んで、潜望鏡にかじりついている艦長の方を見守っている。
緊張した雰囲気の中で1分間が経過した。やがて、沈黙を破ってけたたましい爆発音が一つ鳴り響いた。続いてもう一発・・・。それは、伊58号の放った6本の魚雷のうちの2本が敵艦に命中した爆発音だった。艦内には魚雷命中が伝えられ、乗員は躍り上がって喜んだ。
一時間後、戦果確認のため浮上した伊58号だったが、海上は真っ暗でおまけに波が高くかなり荒れ模様だった。果たして、撃沈したのは何だったのか、本当に戦艦だったのか、また、本当に沈んだのか、逃げたのか、一片の漂流物も発見出来ない今となっては確認のしようがなく、伊58号は要領の得ない状態で空しく帰投せねばならなかった。
その頃、伊58号に雷撃を受けた海上では、凄惨な地獄絵図が繰り広げられていた。この悲運の主は、インディアナポリス号という米海軍の巡洋艦で、それは、太平洋戦争で沈んだ最後の大型艦と記録される運命にあった。
この攻撃で、直径12メートル前後の大穴が2つ開けられたインディアナポリス号は、艦首部分が爆発してポッカリと跡形もなく消え去った。続いて、燃料タンクが誘爆し、隔壁や鋼鉄製のドアが木っ端みじんにふっ飛び、あらゆるものを焼き尽くしていった。艦首部分にいた三百人ほどの乗員は、直撃の爆風で何十メートルも彼方に吹き飛ばされすべて即死した。煙突はさながら噴火して怒った火山のようになり、火の粉や燃え盛る破片をバラバラと空中に噴き上げた。
続いて、何百トンという大量の海水がドッと流入し、インディアナポリス号は、あたかも断末魔の苦しみにのたうち回るかのように蒸気と紅蓮の炎を痛々しげに吹き上げた。
インディアナポリス、米海軍の重巡洋艦で、様々な海戦に参加して、日本の空母を撃沈するなどの大活躍をした。
船体が急に傾斜していったために、多くの者が絶叫をあげながら大きなしぶきをあげて海中に滑り落ちていった。9百人ほどの乗員が真っ暗な海に投げ出された。約半数は救命胴衣をつけていたが、後の半数は丸腰のままである。彼らは立ち泳ぎをしながら、何らかの浮遊物にしがみついている。全員、漏れ出た重油で真っ黒で人だか浮遊物だか区別すらつかない状態である。その間を縫うように無数の救命いかだが漂っていた。
インディアナポリス号には、35隻の救命いかだが積まれていたが、約半数の13隻が脱出に成功することが出来た。救命いかだは、3メートルほどのバルサ材にキャンパスを張ったもので、中には水や食料、釣り道具などが常備されていた。1隻あたり25人ほどが乗ることが出来た。いかだに乗ることが出来なかった者は、縁に取り付けられているロープに手をかけて海中に漬かっているしかなかった。
いかだ同士は、ばらばらにならないように、相互にロープで結ばれていたが、大波で翻弄され、ぶつかり合っていやな音をたてていた。ぐーっと持ち上げられたり、沈み込んだりする度に、いかだの上の者は、投げ出されたり転げ回ったりを繰り返すのである。たちまち腹の底から吐き気が込み上げて来る。多くの者は船酔いにかかり胃の中のものをすべて吐いてしまった。そんな状態を繰り返しながら彼らはゆっくりと海面を漂っていた。
12分後、船が、重低音のきしみを響き渡らせて、海中に没し去ると、あたり一面、テニスコートの数倍ほどの広さで、泡立っているのが聞こえて来た。それは、まるでハチの大軍が襲って来る時の羽音のようだった。
しかし、それもまもなく終わってしまうと、もう何もなかった。星も見えず風もなく、水平線すら分からない真っ暗闇の中で、大きなうねりとともに、やみくもに、上下を繰り返すだけで、たまに、大声で祈る声や時たま上がる悲鳴、海水が救命胴衣を洗う音などが空しく聞こえるだけとなった。生存者の多くは、最初の数時間で、いくつかのグループごとに分散していった。
自分が、果たして生き残れるのか、それともこのまま死んでしまうのか、漂流者の多くは自問自答した。暗闇だけが広がる夜の海を、漂っていると、どんな沈着冷静な人間ですら、思考力をなくしてしまう。自分の名前すらほとんど思い出せなくなってしまうのである。
第一日目が明けた。太陽は、勢いよく真上まで上がると、いきなり気温が上昇した。剥き出しになった頭部が、容赦なく焼かれた。ぎらつく反射光のために、多くの者が、角膜をやられた。まぶたを閉じていても、強烈な光は、依然、射し込んで来る。そのために、衣類の一部を引き裂いて、目隠しをせねばならなかった。はるか上空を何回か、飛行機が通過したが、気付く気配もなかった。
ちょうどその頃、水面下、海の深いところで恐ろしい惨劇の始まりが準備されようとしていた。それは、負傷者や死体から漏れ出る血の臭いに誘われてやって来た。海の死神とも言うべきサメの群れは、暗い海の底から次第に、海面に忍び寄っていたのである。
群れには、様々な種類のサメがいた。アオザメ、イタチザメ、ヨシキリザメ・・・それらは、サメの中でもどう猛な人食いザメとして知られているものである。
中には、6メートルを超す巨大な代物も含まれていた。その数は、次第に増え続け、数百匹にのぼっていた。この死神たちは、最初のうち、海に沈んでいた死人の肉を食らったりしていたが、それを食い尽くすと、今度は、生きている漂流者を狙いだしたのである。
夜明け頃、最初の犠牲者が出た。救命胴衣をつけたまま、眠っていた男が、突如、グィッと海中にかき消すように姿を消してしまったのである。それは、まるで、大物がヒットした時の、ウキか何かのようであった。その後、いくら待とうが、救命胴衣は、愚か、服の切れ端すらも浮かんで来なかった。
ある男が、寝ぼけまなこで、隣にいた友人をつついたことがあった。しかし、反応がなく、その友人は、深く寝入っているようであった。もう一度、押してみると、その友人の体はおもちゃのようにもんどり打ってひっくり返った。彼は、感触があまりに軽いのに驚いた。ひっくり返った友人の体は、救命胴衣から下は何もなかったのである。
よく見ると、友人の腰から下は、サメによって食いちぎられた肉片の一部が、真っ白くふやけて帯状になって、海中でゆらゆらと漂っているだけであった。
裸や下着だけの人間が、最も襲われる危険性が高かった。サメは、海中の青白い胴体と青い海のつくり出すコントラストを目安に動いていたからである。
したがって、サメの気を引くことのないようにじっとしていることが一番肝心な事だったが、隣にいる仲間の一人が、突如、サメの巨大な大口に捕らえられ、暗い海中に引きずり込まれるのを目の当たりにすると、どんな決意もふとっんでしまった。サメに食わえ込まれた哀れな犠牲者は、絶叫しながら、白波を立てて流されていき、すぐに、跡形もなく海中に没してしまう。ほとんどの場合は、そのままだが、時たま、ズタズタに引き裂かれて血まみれの救命胴衣が勢いよく海面上に飛び出してくることもあった。
初めのうち、サメは、主に、集団から離れている漂流者を狙っていた。しかし、彼らは徐々に、集団や救命いかだにも公然と攻撃するようになってきた。サメの興奮が高まるにつれて、それは、凄惨なものになっていった。
いったん、サメが血に飢えて狂乱状態になってしまうと、もう手がつけられなくなる。もし、仲間のうちの一匹が傷ついて血を流そうものなら、今度は、その仲間に攻撃の矛先を向けて襲いかかるのである。そして、残忍にその肉を引きちぎり、むさぼり食ってしまうのだ。
19世紀に起きたスペインを襲った巨大地震では、大津波によって、何万人とも知れぬ人間が、根こそぎ大西洋上に流されたと言われている。それ以来、この付近で捕らえられたサメの腹からは、大量の人間のばらばらになった手足や胴体の一部、さらには、漂流物などが発見されることがあった。恐らく、漂流中の人間や物などを飲み込んだものと思われるが、これらの事実から、サメがきわめてどん欲で、何でもかんでも食べてしまい、また胃袋に入った物は、長時間消化されずに残っていることを物語っている。
およそ、25匹のサメが、いかだの回りを回っていた。それらは、体長が3メートル半ほどのサメの群れだったが、やがて、海中からも、猛烈なサメの頭突きが繰り返されるようになった。
いかだの壊れて開いた穴から、突如、サメの尖った鼻づらが、突き出してくることもあった。真近で見るサメの目は、瞳も何もなく、無表情で人形の目のようだった。
破れた穴から突き出された巨大な鼻づらは、60センチほどもあり、雪のように白いノコギリのような歯は、ガチガチと気味の悪い音を鳴らしていた。
やがて、その巨大な鼻づらが海中に没すると、数秒も経たないうちに、今度は、別口の大きな鼻づらがニューと突き出して来るのである。
多くの者は、恐怖のあまり金縛りにあったように、目を見開いて、その悪夢のような光景を見入っていた。
中には、呆然自失に陥り、やみくもにわけのわからぬ声を張り上げて手足を振り回す者もいた。たまりかねた者が、サメの鼻づらに強烈なパンチをお見舞いしたこともあった。しかし、ムダであった。
全員が、死にものぐるいになって、海面をたたこうが、こん棒で殴りつけて追い払おうが、その時限りで、30分も経つと、サメは再びやって来るのである。
サメが襲うのは、日暮時か夜明け頃が多かった。日中は、海面に無気味なヒレを立てて、死にかけている者や負傷者の間を泳ぎ回っていることが多かった。それは、まるで、日没とともに、襲って食い殺す相手を定めているようでもあった。
そのわずかな傷跡にも無数の小魚が集まって来ては赤向け状態になった肉をついばんだ。死神は、サメだけではなかったのである。まるで、周囲にいるすべての生き物が、彼らの死を待ち望んでいるようであった。
こうして、血を流し、飢えて、精神錯乱に陥って堪えきれなくなった者の多くは、生きるということ自体を放棄してしまった。自ら溺死の道を選ぶ者もいたし、サメに食われようとグループから離れていったりして自殺に着手した者もいる。
漂流も三日目になると、あたり周辺は、浮かぶ死体置き場のような景観を呈して来た。引きちぎられた腕や足、食われかけた胴体、人体のどこかの一部分、血まみれの衣服の切れ端、ズタズタに裂けた救命胴衣など・・・それらが、生きている人間とごっちゃになってプカプカ漂っていたのである。全く、それは、身の毛もよだつ恐ろしい光景だった。
サメの絶え間ざる襲撃に加えて、のどの乾き、飢え、睡眠不足からくる精神錯乱などの堪え難い環境から神経に異常をきたす者が増え始めた。
海水に長時間浸かっていると、様々な症状が体中にあらわれる。まず、ふやけた腕や足に痛みをともなう赤い腫れ物が多数出来る。いわゆる海水腫瘍という症状である。それは、次第に大きくなり、こぶし大ほどにもなって体中を覆いつくしてゆく。そのうち、体毛が一本残らず溶かされてゆく。心臓は、わけもなく脈打つようになり、口で息をしなくてはならなくなる。体温は、低下して昏睡状態の一歩手前になる。多くの者があえぐように呼吸をしながら海上に漂っていた。
こうした体の異常と飢餓による苛立ちは、人をとんでもない行動に走らせることもあった。ある集団は、幻聴や妄想に悩まされた挙句に、突然、「ジャップがオレたちを殺しに来た!」とかわめいて手当りしだいに殺し合いを始めた。ある者は、ナイフで、また、ある者は、手で相手の目をえぐり出し、たちまち、壮絶な殺し合いが海上で行われた。こうして、ほんの十分足らずの間に、50人ほどの人間が体をメッタ刺しにされて殺されていった。
そうかと思えば、祈りと神頼みに終始していた集団もあった。これからは、毎日、欠かさず聖書を読みますだの、日曜には、必ず教会に行きますだの、今後は、決して物を盗んだり、人をだましたりしません。ですから、今日一日、生き延びさせて下さいなどと涙ながらに神との取り引きに明け暮れているのだった。
のどの乾きに、堪えきれなくなった者は、海水を飲もうとした。しかし、海水を飲むことは死を意味していた。海水は、人体が安全に摂取出来る水準の2倍以上の塩分を含んでいたからだ。いったん、海水を飲み始めた者の血中には、大量のナトリュウムがドッと放出されることとなる。この量は、もはや腎臓の浄化能力を越えた数値なのである。
やがて、くちびるが、青く変色し呼吸が不規則になる。両目がグルッとひっくり返って白くなり、神経組織まで犯されるのである。その成れの果ては、身体をけいれんさせて死を迎えるのである。これに対する有効な対策は、真水を大量に採ることしかない。だが、この大海原のどこに真水があるというのだろう。
昼間は、強烈で残忍な太陽が、容赦なく体を焦がす焦熱地獄だった。しかし、その太陽が沈んで、あたりが暗くなると、サメの食事時となるのだ。真っ暗な闇の中で、いつ何どき、自分がサメに食わえ込まれて海中に引っぱり込まれることになるのか、一寸先の運命は、誰にもわからない。サメの注意を引かぬように、息を殺して、じっとして海面に漂っているしかなかった。足下数メートル下を巨大な人食いザメが遊弋しているのである。時たま、何かが自分の足に触れると、それこそ、心臓が縮み上がるような恐ろしさを味わった。真っ暗な海面のどこかで、不幸な運の悪い犠牲者のあげる断末魔の叫び声のみが引っ切りなしに響き渡った。それは、いくら耳を覆っても、忘れることの出来ない恐ろしい叫び声だった。
夜が明ける間に、十分間に一人の割合で死んでいった。いつ自分の番が来るのか、考えるだけでも気が狂いそうになる時間が延々と続いた。全く、それは、ルシアンルーレットのような惨い拷問であった。弾倉に実弾を一発だけ装填し、自分のこめかみに銃を当てて引き金を引くという死のゲームである。それが、延々と続くのだ。多くの者は、自らの精神力を使い果たしてしまい、老人のようになってしまった。
漂流4日目、すべての人間の命が尽きかけたと思われた頃、ようやく救助隊が来た。しかし、それは、あまりにも遅すぎるものであった。
回収された死体は、ほとんどが全裸状態で腐敗しており、すべてがゾッとするほど膨れ上がっていた。遺体の各部には、サメに噛まれた痕があり、骨だけになっていたのもあった。もちろん顔での確認は不可能だったので、あらゆる所持品が本人確認のために剥ぎ取られた。
こうして、5日間の悪夢は終わりを告げた。多くの人間が、過酷な環境に放り込まれ、絶え間ざるサメの襲撃、海水腫瘍、肉体的疲労、狂気をともなう精神錯乱と闘ったのである。そして、300名ほどの人間が、奇跡的に生き延びることを許された。最悪の惨事は、なぜ起こったのだろうか?
戦争末期、断末魔にあえぐ日本を攻め上げているアメリカ海軍の内部には、大きな矛盾があった。つまり、相容れぬ大きな二つの派閥が存在していたのである。それは、グアムを基地とするニミッツ提督の太平洋艦隊司令部であり、もう一つは、フィリピン、レイテ島にあるマッカッサー元帥の第7艦隊司令部であった。そして、この二人は、まことに犬猿の仲と言っていいほど仲が悪かった。従ってグアム島とレイテ島との連絡はほとんどない状態だったのだ。
インディアナポリス号は、ちょうどこのはざまで姿を消してしまう格好となった。救難信号は、2度に渡ってレイテの海軍基地に届いていたが、それは、日本側が救助隊をおびき出すための欺瞞工作と見てとった基地側は、この貴重な無電を無視したのである。また、レイテからグアムへの確認の連絡も取られなかった。沈没地点に急行していた2隻のタグボートは、後十数時間で現場に到着というのに、空しく呼び戻されてしまったのである。こうして、海に投げ出された約千人の乗組員は、見捨てられる運命にあった。
このように、上層部の怠慢から発見が遅れ、110時間も漂流した彼らは、身の毛のよだつ地獄の体験を余儀なくさせられたのである。
飢えと、精神錯乱と脱水状態の中、血に飢えた何百頭のどう猛な鮫が、彼らに襲いかかったのである。
その後、テニアンで、インディアナポリス号が運んで来たパーツを受け取ったアメリカ軍は、世界最初になる原子爆弾を組み立てた。「リトルボーイ」と名づけられたその原爆は、数日後には広島に投下される予定になっていた。B29「エノラゲイ」の乗員は、原子爆弾本体に、「インディアナポリスの英霊に捧ぐ」という文字を刻んで出撃したと言われている。そして、その数時間後には、人類史上最大の汚点ともいうべき行為で、十数万の罪なき市民が一瞬にして犠牲になったのである。
戦後、軍法会議に望んだインディアナポリス号のかつての艦長マックベイ大佐は、対潜水艦対策として、ジグザグ航法を怠った理由で、有罪判決を受けた。マックベイ艦長は、その後、自責と汚名の念に苦しみ抜き、結局その苦しみから逃れられずに、23年後の1968年にピストル自殺を遂げて、苦悶の70年の生涯に自ら終止符を打った。
この惨事を生き延びたインディアナポリス号の生存者たちは、その後の人生にさまざまな価値観の転換を余儀なくされることになった。そして、二年ごとに、生存者戦友の会が開かれることとなったが、その席上に、かつて、漂流中の自分たちを発見してくれたパイロットが顔を見せると、たちまち、人だかりが出来るほどで、その度に、全員が手を取り合って感動して涙を流したという。
ある生存者は、自分たちの頭上を舞う飛行機の姿が、まるで天使が舞っているように見えたとその時の心境を述べている。事実、そのパイロットは、これ以上留まると燃料が尽きて墜落するかもしれないという危険を顧みず、最後の一秒まで漂流者たちの頭上を舞い懸命に励ましのエールを送リ続けたのであった。
最悪なのはサメの襲撃などではなかった。生き抜こうとする炎が心の中から消え失せてしまった時だ。その時こそ、一切の望みが消えて人生が終わってしまうのである。 例え、かすかな望みであっても、それを信じて自分に打ち勝った者のみが生死の境界線を乗り越えることが出来たのだ。

 

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