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くださるとは?/ セントラルファイナンス

[ 551] 斎藤真実の「これみてくださる」
[引用サイト]  http://yaplog.jp/mamiami/

まだ少し残っている灯油を使い果たしたいというのもあるのですが、それだけではなく、本当に寒くて、ついつい、アトリエでストーブをつけてしまいました!
すっきりと晴れ渡り、カーテン越しにもいかにも陽が燦々と照っています!!これ以上無いくらい照ってます!!!というのがズンズンわかってしまうような気合いの入った天気の日とは違い、朝目覚めた時にぼんやりとした光しか入ってこず、しとしとと雨の気配が伝わってくると、ぬくぬくと布団にくるまって、猫と一緒にいつまでもゴロゴロゴロゴロとしていたくなってしまいます。
でも、一度起き上がってしまうと、なんだか不思議と雨の日ほど、部屋の片づけとか、掃除とか、普段しないような雑用をしたくなってしまうのですよ、これが。
普通、掃除・片づけ・雑用などは、すっきりと晴れた日にしたくなるという人が多いのかと思いますが、なぜか、私は雨が降った日にこそ、掃除とか片づけとか、はたまた部屋の模様替えとか、そういうことをしたくなってしまうのです。
ツバメが低く飛ぶと雨が降るという民間の天気予測がありますが、これ、個人的に見かける風景と照らし合わせると、ほんと当たります。
暴れるというか、いつもよりもそわそわと動きが変になるというか、落ち着きがなくなるというか、ジャレまくるというか、、。
人間も、気圧や天気の変化を敏感に感じてしまったりするのですから、ツバメやネコならなおさら、より強くその変化を感じてしまうんでしょうね。
さて、一昨日興奮して暴れまくっていたうちのおネコさん、もうしばらくは雨模様の日が続くようなので、天気予報の必要もなく、一日中寝ております、、、(笑)。
司馬遼太郎さんの、歴史上実在した人物の描写の仕方は、いつもいつもすぐ近くにその人がいるような気分にさせてくれます。
とてつもなく膨大な量の資料の検証と、現地に足を運ぶことでしか得られない感じられない、その土地土地の風土や空気の肌触りと。
今私の目の前には、竜馬さんや武市さん、桂さんなどが、そう遠くない過去の日本のそこここで、活き活きと動いているのが見えます。
「百聞は一見にしかず」とはいいますが、「一見」というか、現地に行ってその土地を体全体で感じることの大切さは、しみじみと思い知らされます。
普段の生活の中でもそんな小さな実感はありますが、例えば、ずっと行きたかった場所、写真や話だけで知っていた(厳密には『知って』はいないのですが。)場所に、初めて実際に足を運んだ時など、つくづく、そのことの重要さを思い知らされます。
鳥取から島根を中心に回ったのですが、中でも地味ながらずっしりと印象に残っているのは、何にもない、ただ海と浜が広がるだけの鳥取県は白兎海岸。
歴史や古事記のお好きな方は反応されたかもしれませんが、そう、「因幡の白ウサギ」の舞台になっている海岸です。
海岸近くにある白兎神社の案内によると、ここは、和邇(ワニ)族と白兎(ハクト)族の抗争の跡地だそうで、それがあの神話のもとになっています。
白ウサギ(白兎族の誰かでしょう)は、皮膚がはがれ海水で赤くただれた肌を、大国主命の言葉通り真水で洗いガマの穂で治したといわれていますが、その体を洗った池といわれるものが、白兎神社には残っていたりもします。
「ああ、この場所の空気はきっと、『神話』として残されている時代の頃から、あまり変わっていないんだろうな、、」と感じます。
日本海に向けて、きれいに明るく開けた、空も海も広い海岸ですが、そこには、光と影の両方が色濃く存在している「裏日本」特有の空気が漂っていて、ワニ(サメ)に服をはぎ取られ皮の剥けた白ウサギがそこにいそうで、そして大国主命が今にもその海岸を歩いてきそうでした。
マナーや山への礼儀だけは、山菜採りに山に入る皆さんにきちんとしてほしい限りですが、その上で楽しませてもらえるのなら、春の味覚、最高です。
果たして昼から夜まで一日中同じカエルが鳴き続けているのか、それとも3交代か2交代かで入れ代わっているのかそれは定かではないけれど、とにかく、よく鳴いています。
ところで、カエルの合唱、その声が日常耳に入ってくる音の基本としていつもいつもあって、その上に、風の音や車の音、人の声、生活音等々、、、が上乗せされて聴こえている日々を想像してみてください。
いつもいつも聴いている私でさえ、そしてカエル(姿など)が苦手な私にとってさえも、風情があって、季節感に溢れた、いい音の風景です。
その当たり前の音がふいに止んでしまった時、耳は、かえって余計な音を拾いあげてしまい、ちょっと不快な不協和音を聴いているかのような、違和感に包まれるのです。
こうしてPCに向かっている時、PCが起動している間かすかに鳴っている機械の音と、キーボードを叩く音と、そしてカエルの合唱しか聴こえないような時に、ふいにピタッとカエルの声だけが消えると、普段全く気にならないはずのPCの機械音をなんだかうるさいくらいの音の存在として感じるのです。
実際の音量だけでいったら、カエルの合唱が止んだ時のほうが、耳に入る音量はトータルで随分小さくなっているはずなのに。。。。
宇宙の真空、無音の世界に身をさらした時、人の耳はその無音に耐えられないというような話を聞いたことがあります。
深層心理が現れるだの夢占いだのといろいろいわれるけれど、そういえば、ヒトが、「夢」と「現」とを区別して認識するようになったのはいつからなのだろうか??
昔(例えば文明と言われるものが築かれる以前)の人は、その境・区別が、もっと曖昧だったんじゃないだろうか?という気がしたりする。
夜の暗闇の中に潜む、文明人などには感じ得ない豊かな世界をしっかりと見、白昼に見る世界と同じように親しんでいたのじゃないかな、と想像する。
文明以前などと書いたけれど、もしかしたらもっと最近まで、日本人のほとんどにとって、夢と現、光と闇が曖昧に混じりあい存在しあっていたのかもしれない。
最初さほど気にならず(といってもとても好きな作品ではあったのだけれど)次の作品・展示室に移って、いつものように最後の作品まで観、そしてまた横山操の作品の展示室に戻った。
積み重ねた経験と実力・鋭く豊かな感性から出るのであろう瞬発力と、時にじっくりと取りかかる描写と、とにかく、素晴らしい世界だった。
シンプルな紙と墨という画材だけで、モノトーンの絵画空間で、あの深い深い、広い広い世界と、作者の震えるような感動・力を感じることができる。
作品が放つ力が、何て言ったらいいんだろうか、ガシッと、足元からつかまれる感じで、その前から離れるのが嫌になるくらいだった。
福島県立美術館で開催中の「三重県立美術館所蔵作品展・名画の散歩道」の中の、最初の展示室にあった作品。
他の作品も、小さかったりはするけれど有名どころの秀逸な作品がそろっていて、まさに心地良い絵画の森の中を「散歩」している気分になれた。
中尊寺などの有名な観光地だけではなく、めったにお目にかかれない山奥のお寺の仏像や建築を拝観して回った。
ところで、日本史上の人物の中でも人気の高い義経だけに、平泉で無念の死を遂げたのではなく、無事に逃げ切ってモンゴルに渡り、チンギス・ハーンになった、などという伝説もある。
けれど、平泉に行って、義経最期の地といわれている高館(たかだち)に行くと、義経はここで息絶えたんだということが、なぜかはわからないけれど、なんとな〜く、実感される。
眼下に北上川が流れ、その向こうには束稲山が横たわり、少し左手に目を転じれば、衣川が北上川に合流する風景が見え、、、。
その土地とそこに生きた人々の分厚い歴史を、直に肌で感じられる場所、歴史が流れても、ずっと同じ空気が溜まり包み込んでいるような場所というのが時折あるけれど、ここはまさに、その最たる場所。
そんな道を歩いていると、日没間際とはいえ、日中の太陽でさんざん温められたアスファルトが抱え込んでいる熱が足元からじわじわと伝わってきて、顔の辺りまでじんわりと熱を感じます。
一方、水の入った田圃や畑の上を通ってきた風が吹いてくると、その熱を吹き飛ばしてくれるかのように、ひんやりとした湿気を含んだ心地良い空気が広がります。
今、そのバランスが、大きく崩れているんだな、、と、束の間吹き込んで包み込んでくれる冷たい爽やかな風を感じながら思いました。
日本の自然だけじゃなく、日本の農業がしっかり守られ保たれ、そして日本人の食が守られていくということは、そのままずばり、地球温暖化の防止・抑止に直結してるんだよ。
レストランが撤退した当時、県が家賃収入を増やそうとしたことが主な原因のひとつ、らしい、と新聞などで大きく取り上げられていた。
美術館とカフェ、もしくはレストランは、セットであってしかるべきだと、美術館に足を運ぶ者としては思う。
美術館で芸術を鑑賞するということは、思った以上に体力と脳ミソ(というか、心とも言えるか)を消耗する。
この疲労は、ただ立ちっぱなしで足が疲れるというだけではなく、心が「おなかいっぱい!」になった豊かな疲労、日頃休んでいたりする脳ミソの部分の、心地良い疲労と消耗。
美術館を見た後、日常に帰る前に、じっくりとその「疲労」を癒し、感動を反芻し反芻し、高揚感を程よく鎮め、自分の栄養にする時間が必要だったりする。
それができるのが、美術館と併設されているカフェやレストランで、甘いものやコーヒーなどといただきながらの時間だったりする。
文化的事業に関しては(そればかりではないだろうけれど)、その成果が目に見えて現れるまで、特に我慢して待つことが必要な分野だと思う。
だからこそ、大きな流れに関しては、自治体なり国なり公が、ある程度我慢して継続して取り組んでもらうことが大事なのだと思う。
美術などの文化は、無くても「生活」はできるものだったりするけれど、無かったらとんでもない世の中になってしまうものでもあるから。
どの月の満月も、その時しか見ることのできない(というか、曇っていれば見ることすらできないかもしれない)一回だけの満月の風景ではあるのだけれど、この五月の満月は、私にとって、ちょっと違う、特別な満月。
この時期、田植えを終えたばかりの田圃はまだまだ稲苗が小さく、夜になると、ただただ静かに美しくはっきりと風景を映す鏡面のようなのです。
時折強まったり弱まったりするカエルの合唱が、その風景を盛り上げてくれる絶妙なBGMとなって、耳に心地良く。

 

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