アレクセイとは?/ プロミス
[ 256] BBS『アレクセイの花園』
[引用サイト] http://8010.teacup.com/aleksey/bbs
※ 現在、この掲示板は「投稿モード」を採用しておりますため、ご投稿は即時に表示されません。管理人がチェックの後、手動で掲示板に反映しますので、半日から数時間のタイムラグがございます。ご理解とご協力の程、よろしくお願いいたします。(管理人・アレクセイ) みなさん、こんにちは! すこしご報告が遅れてしまいましたが、竹本健治の新刊が先日刊行されました。ご存じ「キララ」シリーズの2巻目となる『キララ、またも探偵す。』(文藝春秋)です。 このシリーズは、さえない大学生 乙島侑平のところへ、親戚の変人科学者 益子博士が極秘裏に開発した「メイド型アンドロイド」であるキララが送られてきて、キララのモニタリングを依頼されるというところから始まります。 キララは、どんなアイドルだってかなわない絶世の美少女の外見を持ち、しかもご主人様として登録されている侑平にはぞっこんの絶対服従です。当然、侑平は大喜びするんですが、キララが侑平の元に届けられて以来、キララと侑平は、キララと同型アンドロイドがらみの事件に、たびたび巻き込まれることになります。 一見したところ、お軽いノリの、ノーテンキなSFミステリ見えるシリーズですが、そこはさすがに鬼才竹本健治。「アンドロイド(=人造人間)は如何にして可能か?」という設問を通して「人間とは如何なるものなのか?」という根源的問題を逆照射してみせます。 ミステリ的に際立った謎の提示や謎解きがあるわけではなく、そのようなものを期待すると肩透かしを喰うことになるかも知れませんが、上記のような思弁的問題意識を読み取れれば、見掛けとは違う、知的にスリリングな小説として楽しめるシリーズに仕上がっています。 キララを含む同型の「メイド型アンドロイド」、ここでは仮に「キララ型アンドロイド」としておきますが、キララ型アンドロイドには、 で、竹本健治が「キララ、失踪す。」で応用したのは、この第1条の『ロボットは人間に危害を(…)与える危険を見過ごしてはならない』の項目で、なぜ「彼女=キララ型アンドロイド」は「事前に殺人計画を知っていながら、その時すぐに、その計画を止めようとはしなかったのか?」という「謎=ホワイダニット」を設定しみせたんです。 侑平のそうした疑問について、「キララ型アンドロイド」開発スタッフの一人であるミス・キャンベルは、次のように答えます。 『「ソレハ大変デリケートナ問題デース。モトモト益子式三原則デハ、アジモフ流三原則同様、ロボットハ人命ヲ守ラナケレバナラナイトイウコトニナッテイマスガ、ソノ原則ヲ無制限ニ最優先サセルト、人命ノ危機ガ存在スル場所ハコノ世ニイクラデモアリマスシ、早イ話、戦争ヤ飢餓ヤ疫病ハ世界ノ各地デ進行中デスカラ、ロボットハ真ッ先ニソウイウ場所ニ駆ケツケテ人命救助ヲシ続ケナケレバナラズ、永久ニ本来ノ役割ヲ果タスコトガデキナクナッテシマウデショウ。ダカラ特ニ命令ノナイ場合、守ルベキ人命ノ対象ハゴク限ラレタ次空間ノ範囲内ニ制限サレテイルノデース。シカモ今回ノケースデハ、(…)何ヵ月モ先ノアヤフヤナ犯行計画ニ過ギナイノデ、ソレダケデハ違法ナ行為トハ言エマセンネ。ダカラ彼女ハソノ場デハ、ソノ話ヲ単ナル情報ノヒトツトシテヤリ過ゴシタノダト思イマス」』(P80〜81) 作中でも語られているとおり、ロボットが人間と共存していくためには、こうした「ロボット3原則」は必要不可欠なものだと言えるでしょうが、「原則」はあくまでも原則であって、それらの個々の原則を『無制限ニ最優先サセル』と、それはそれで何かと不都合な事態の発生も避けられないんですね。だから、こうした「正しい原則」の適用範囲をどこまでとするか、つまり「限定をどのように課するのか?」というのが、非常に重要かつ本質的な問題となってくる(=正しさの限界設定)。――で、この問題は、そのまま「人間の問題」でもあるんですね。 つまり、人間の場合だって「困っている人がいれば、助けてあげなければならない」というのは、自明の「大原則」だと言えるでしょう。だけど、そこにも確実に「限界」はある。 「パレスチナ問題」「イラク戦争」「ミャンマーのサイクロン被害」「中国・四川大地震」などの実例を待つまでもなく、作中でも語られているとおり『戦争ヤ飢餓ヤ疫病ハ世界ノ各地デ進行中』ですから、ボクたち人間も「困っている人がいれば、助けてあげなければならない」という「原則」を『無制限ニ最優先サセル』と『真ッ先ニソウイウ場所ニ駆ケツケテ人命救助ヲシ続ケナケレバナラズ』、永久に「自分の幸せ」という『本来ノ』目的を追求することが出来なくなってしまうんです。 無論、人間には「自分個人の幸せの追求」という(ロボットには無い)「本来の目的」があるから、「困っている人がいれば、助けてあげなければならない」ことはない、ということにはなりません。あくまでも、この「他者救援の原則」は生きていますが、その原則が追求されるのは、あくまでも自分がこの「原則」の行使によって不幸にならない範囲に「限定される」んです(つまり、「自己犠牲の快楽(=幸福)」は否定されません)。 言い換えれば、ロボットの場合なら「原則」の「適用範囲」を、人間によって設定され、それをインプットされるだけ(だからこそ、人間の作る「プログラム」がしっかりしていないといけない)なんですが、本質的な個体差を持つ人間の場合には、個々人が個別的状況に応じて「原則の適用範囲」を自分で判断し選択して行動しなければならない。「倫理問題」に対しては、誰も画一的な「正解」を与えてはくれない、という難しさがあるんですね。 つまり、ここで問われているのは、「個人における、自他のバランス問題」なんだと言えるでしょう。「原則」としては、人間は「困っている人がいれば、助けてあげなければならない」のだけれど、どのくらい「他人の救援」に「自分の時間と労力」を掛けるか掛け得るかは、人それぞれであり、一律に決定することはできません。 暇とお金のある人、あるいは、たとえ我が身を滅ぼすことになっても、人に尽くすことが最大の喜びであると感じられる、文字どおり「奇特な人」であれば、この「他者救援の原則」を、文字どおりに追求することもできるでしょう。でも、暇もお金もなく、家族を養っていくことで精いっぱい人や、体が弱くて動けない人、あるいは精神的に自分のことで手いっぱいの人(精神病の人や、単純に利己心に凝り固まっている人)には、「他者救援の原則」は、容易には追求できない難問となるんですね。 でも、「困っている人がいれば、助けてあげる」というのは、とても(わかりやすく)素晴らしいことであるからこそ、「困っている人がいれば、助けてあげなければならない」という「原則」は、しばしば「義務」的なものと勘違いされがちですし、そのために「困っている人を助けようとしない人は、冷酷漢の人非人だ」という「表面的かつ短絡的判断」がしばしばなされがちで、そのことによって、時には「自分個人の幸せの追求」という「より根源的な原則」の追求が妨げられるようなことも、決して珍しくはないんです(例えば「お国のため、家族のために、その命を捨てよ。自分一個の幸せに固執するのは、愚劣な生き方だ」というような思想を正当化してしまいがち)。 ですから、ロボットとは違い、ボクたち「人間」には「個別多様な(=個性的な)判断能力」があり、それがあるからこそ「選択(意志決定)の自由」もあって、そこにこそ「人間固有の尊厳」もあるのだということを、よくよく考えなければならないんですね。 そうでないと、「困っている人がいれば、助けてあげなければならない」といった「美しい原則」によって、「人間固有の尊厳=知性の自由」を傷つけ妨げるという醜行がまかり通ってしまうことにもなりかねないんです。 「良きこと」は「すべき(義務)」です。しかし、この場合の「義務」とは、自分が自分に課する義務、つまり、自分がそれを「選び取った」上で自分に課するものであって、他人が人に課する(押しつける)ものではない。例えば、「困っている人がいれば、助けてあげる」という「他者援助」は、個々人が自分の判断で進んでやるからこそ意味があるのであって、他人が強いるべき「義務」などではない。 言い換えれば「強いられた善行」は善行ではなく、「他人に善行を強いること」は、原則的には「人間(固有)の尊厳」を蔑ろにする「悪行」なのだということを、ボクたちは心すべきなのですね。 ともあれ、ロボットはインプットされた「プログラム」にしたがって、いつも同じパターンで「行動範囲」を限定されていれば良いわけですが、ボクたち人間は、目の前に選択必要状況が立ち上がる度に、どのような選択をすべきかと悩まなければなりません。それは、とてもしんどくて辛いことなんですが、でも「より良きこと」行うために「悩む」「悩み得る」というところに「人間(固有)の尊厳」があるということを忘れてはなりません。 つまり、「悩み」が無いのが、幸せなのではない。高度かつ有意義な問題について、適切に「悩み得る」人間こそが、もっとも「人間らしく幸せな人間」だと言えるのではないでしょうか。 最近のご生活にまつわるご論考を拝見しますと、「思考と行動」がバランスよく、着実に進められているという印象を受けます。――ただ、生活がかかった行動ですので、そこは慎重の上にも慎重にお願いしますね。 >> そして、そういうものに、いったん身を委ねてしまうと、人はそれ(「つっかえ棒・浮き輪」的なもの)を失うことを、何よりも怖れてしまう。それを失うという事態を想像(予想)するだけで、人は自身の足元の大地が崩壊して、無限の奈落へと引き込まれていくような「恐怖」を感じるんでしょうね。 > 人間のそういう部分を非難しても、非難された相手側にすれば「絶対」という確信を持ったモノがないので、対話を拒絶するか退散するか、あるいは開き直って愚痴っぽくなるばかりでしたね。だからこそ、自分の考えを頼りに論理的に考えようとする人は、稀有な存在にならざるを得ないのでしょうね。 そうですね。園主さまもしばしば「反省こそが、知性の真髄だ」というようなことをおっしゃいますが、裏を返せば「反省=自分を省みて客観的に検討すること」は容易ではない、ということなんでしょうね。また、だからこそ、他人が、本人の気づきにくい部分を指摘してあげる。――むろん、それで反省できるようになる人なんてめったにいないんでしょうけど、その稀有な可能性に賭ける、人間の可能性を信じて賭けるというところに、批評の存在意義もあるんだと思います。 園主さまからのご回答の前に、ボクも及ばずながらの参考意見を書かせていただきますと、「絵を描きたい」という情熱を再燃させるには、『パクリ』たいと思うような絵に接することが、一番だと思います。 どんな創作だって、最初は「こんなのが描きたい(書きたい・作りたい)」という「模倣の情熱」から始まるわけですから、それを否定してはいけない。個性なんて、後からだんだん出てくるものなんですから、最初は『パクリ』でいいし、『パクリ』から再出発すればいいんじゃないでしょうか? でも、そのためには「パクリたい」と思える作品・作家を見つけなければなりません。情熱が勝手に湧いてくるのを座して待っていても、それは無理というものでしょう。ボクが思うに、とにかく自分が真似したくなるような(触発してくれる)絵描きを是が非でも見つけることが、この場合、肝要なんだと思います。 そして、参考までにつけ加えておきますと、ひろさんのご文章には、巧拙を越えた「情熱」が今でも生きています。だから、決して「情熱」が涸れているというわけではありません。単に、その情熱が「絵」に向かっていないだけだと思いますので、その情熱をうまく「絵」に差し向けるよう、ご努力をなさればいいんじゃないかと思います。 で、あそこまでコテンパンにやられて、ほうほうの態で逃げ出した熊谷さんなんですから、あの屈辱を忘れられるはずなんてないのは、傍目にも明らかなのに・・・。 いや、もしかすると、あまりにも強烈な屈辱体験であったがために、その記憶を封印して、ホントに忘れてしまったのかも知れませんね。そうだとしたら、お気の毒です。 それにしても、もう一度、ご自身で「平和運動家論争」を読み返して、ご自分の「歴史的現実」を直視し、その上で、その現実を乗り越える努力をしてもらいたいものです。 ご自身も「南京大虐殺」などについて語られているとおり、思い出したくない記憶でも、それを直視しないかぎり、いつまで経っても問題は解決しませんからね。 ま、それにしても園主さま、熊谷さんの掲示板「問答有用」の方で、徹底的にやっておられますね。「書き込んでは削除され、同じものを書き込んでは削除され」という、掲示板上での「見えにくい暗闘」は、ほとんどドタバタ喜劇の域に達していると思います(^-^;)。 >> 園主さまがこの結果について、どのようにコメントするのかが、興味のあるところです(コワイもの見たさで/笑)。 > それにしても、『探偵小説の論理学』に投票した「本格ミステリ作家クラブ」会員は、ごく常識的な意味で「読解力が無い」人たちだと言えるだろうな。投票者が判明したら、ここにその名を列挙してやろうか(笑)。 >> ブログの方で、今ご自身にとって、とても大切な問題について、格闘的に「思考」しておられているんですね。 >> 問題は、一朝一夕には解決しないでしょうが、kamuiさんの今のご努力は、決して無駄にはならないと思います。園主さまともども、心から応援しておりますので、挫けずに、しぶとく頑張って下さい。(< ホランドくん) > こんにちは。お読みくださりありがとうございます。しかし、読んでいて暗くなりそうな話ばかりですね。(苦笑) これはやはり、ご自分の弱点を直視し、それを隠さずに吐露したうえで、それと向き合えるようになったご自身に、ご自身が本当の意味での自信を持てるようになったからではないかと存じます。 > 園主さまがこの結果について、どのようにコメントするのかが、興味のあるところです(コワイもの見たさで/笑)。 それにしても、『探偵小説の論理学』に投票した「本格ミステリ作家クラブ」会員は、ごく常識的な意味で「読解力が無い」人たちだと言えるだろうな。投票者が判明したら、ここにその名を列挙してやろうか(笑)。 熊谷伸一郎氏は、私の投稿を削除したことについて、その責任を「問答有用管理人団」なる「正体不明の集団」に転嫁しようとしたのでございます。 私は、熊谷氏に「忙しくしており、メールを拝見できず、お返事できませんでした」などというような、いつもの空々しい「言い訳」を許さないため、今日までたっぷりと時間的猶予を与えたのでございますが、いくら待ってみても、結果は予想どおりだったというわけでございます。 当然、熊谷氏は、すでに私の上記返信を読んでおりますし、くり返し投稿されている前掲の書き込み「熊谷伸一郎の掲示板「問答有用」の存在意義」も読んでおります。その上で、またもやご都合主義的に「知らん顔」を決め込んでいる。――これが、私が熊谷伸一郎氏のことを「勝手つんぼ」を呼ぶ所以なのでございます。 といった「戦争と平和と中国との友好」にかかわる著書のある、著名な「平和運動家」でございますが、そんな熊谷伸一郎氏とは、実のところ、このように「卑怯未練」な人物だったというわけなのでございます。 投稿を片っ端から削除されはじめた私は、この「問答無用の削除」の事実を、掲示板「問答有用」の閲覧者に周知徹底すべく、発見され次第「削除」されるのは承知の上で、ゲリラ的にいくつかの投稿をいたしました。 中国政府ならまだしも、日本の警察だってしないような「問答無用の強権発動」によって、いったいどのような「書き込み」が、ここの管理者によって「削除」されるのかを示すため、問題とされたであろう「文中のURL」のみはずし、あらためて原文を「議論のための資料」として、ご紹介したいと思います。 「問答有用管理人団」は、 同書き込みの中に、私と熊谷伸一郎氏との「平和運動家論争」を紹介するリンクがあるのを捉えて『自サイトの宣伝行為』にあたる(46420「宣伝投稿はお断りします」)と言いたいのでしょう。 しかしながら、これが当たり前の意味での『自サイトの宣伝行為』に該当しないというのは、削除された下の投稿に書いたとおりです。 つまり、この「論争」の『熊之巣』での公開は、もともと「この掲示板の管理人である、熊谷伸一郎氏が望んでいたこと」であり、それを私が代理で行ったに過ぎないからです。 もしも熊谷伸一郎氏が、自身の「以前の発言」に反して、自分のブログや掲示板での「平和運動家論争」の紹介を望まなくなったのなら、せめてそれを皆の前で表明・撤回すべきであり、それこそが「職業言論人の最低限のモラル」というものではないでしょうか。また、「問答有用管理人団」の名を借りての「削除」というやり口は、あまりにも「陰険・姑息」なのではないでしょうか? ともあれ、正体の定かではない「問答有用管理人団」とやらは、中国政府さながらに、私の書き込みを「削除」しました。こんなことをするようでは、この掲示板の名前も、そろそろその実態に即して「問答無用」にすべきであり、その方が正直かつストレートなのではないでしょうか。 問答(議論)をするためには、その「議論の対象」をつねに明確にしておくというのは当たり前のことで、「平和運動家論争」関連の後続の書き込みに、あらためてリンクを張っておくというのは、後からこの議論を読む人たちへ、当然の配慮でしょう。 しかしながら、自分の書いたこと言ったことを「恥ずかしくて、読まれたくない」という熊谷伸一郎氏の、別名か、あるいは傀儡である「問答有用管理人団」が、無理にでも同ページを紹介させまいとするのであれば、――それはそれでかまいません。その事実が「記録」されることの方が、私としてはありがたいのですからね。「暴力(強権)にも言論で」というのが、私のポリシーですし(笑)。 そんなわけで、下の再録文からは、「平和運動家論争」ページへのアドレスだけが削除されてます。これなら、この文章を「削除する理由」は無いでしょう。――なにしろこれは「管理者による、削除の是非」に関する「議論・問答」を求める意見の書き込みなんですからね。 「削除」や「排除」といった「強権発動」は、あとで否定することのできない(明白かつ貴重な)「リアクション」として「記録」されるものであり、その「事実」を、私の掲示板や「よそ」で、「事実報告」として紹介することだってできるのですからね(笑)。私が四の五の論ずるよりも、端的に「事実」を示す方が良いというのは、「平和運動家論争」の場合と同じなのです。 そのあたりを「忌憚なく」お聞かせ願えれば、論争の当事者として、私は無論、熊谷伸一郎も喜ぶのではないかと思います。なにしろ、この、 ――もっとも、貴方は、ご自分の投稿が削除されても、ぜんぜん平気なようで、そのことについて管理者を批判することもなさっていないようですが、これは貴方が「体制順応派」だからなのか、それとも、削除された書き込みで「熊谷伸一郎なんか、所詮はそこらにいるネサヨの一人に過ぎない」などと大口を叩いたので、削除された方がむしろ好都合だと考えたから、なのでしょうか? 削除された貴方の書き込みのログをまだ採ってはいなかったので、正確に紹介することはできませんが、貴方のレスで私の印象に残ったのは、私がその前のレス(No.46423)で、 と書いたことについて、「私は興奮していない。なぜならば(…)。興奮しているのは、おまえのほうだ」と大真面目に反論なさっていたこと。 それから、前記のように「熊谷伸一郎なんか、所詮はそこらにいるネサヨの一人に過ぎない」と、熊谷伸一郎氏を「無根拠に切り捨てていた」点の、2点です。 まず前者から感想を書かせていただきますと、私は「自分が興奮していないということを、自分で論証できると思い、それを実行しようとする人」というのは、「そうとう頭が悪い」か「飛び抜けて頭が良い」かの、いずれかでしかないと考えます。――さて、加減乗除さまは、そのどちらなのでしょう。 次に後者についてですが、所詮はどこの馬の骨かもわからない「匿名」者である加減乗除さんが、身元をはっきりさせて発言をしている熊谷伸一郎氏を、根拠も示さずに否定的に評価するというのは、身の程知らずであり、アンフェアな態度だと思います。 「非匿名」である熊谷伸一郎氏や私などは、失言したり、議論で言い負かされたりした場合、その後は、その事実を背負っていかなければならないという立場を選んだ人間です。つまり、ひとまず「発言責任」をとる形式は引き受けている。 ところが「熊谷伸一郎なんか、所詮はそこらにいるネサヨの一人に過ぎない」なんて大口を叩く加減乗除さんご自身は、所詮は「2ちゃんねるの匿名鴉」と同じで、いざとなればハンドルネームを変えて、姿を暗ませればそれっきりという、じつにお気楽で無責任な立場ですよね。そんな人間が、仮にも一定の実績を残している熊谷伸一郎氏について、根拠を示すこともなく「熊谷伸一郎なんか、所詮はそこらにいるネサヨの一人に過ぎない」なんて大口を叩くというのは、あまりにも自分の立場に無自覚(=身の程知らず)であり、頭の悪い態度と言えるのではないでしょうか? 結局、自分では大したこともできない、あるいは中身のあることが言えない「三流のクズ」が、自分よりもずっと優れた人間を「あんなもの大したことない」とか何とか、くだらない難癖をつけ、それを「評価」だ「批判」だと言って、優位に立ったような気分になりたがるというのが、このネットの世界の常なんですが、私が思うに加減乗除さんなどは、そういう「ネット的有象無象」を象徴するような存在(=典型的人物)なのではないでしょうか。 「いや、私はこういう者だよ。この自分のブログで、固定ハンドルで、こうして責任ある発言を、継続的に行ってきた人間だ」とご説明下さるのであれば、私のこの「加減乗除」理解は、単なる誤解であったと撤回しましょう。どうですか、加減乗除さん? いぜん、私に「匿名」を批判された頭の悪い「ネウヨ」は、こう言われて、急遽「捨てホームページ」を立ち上げ、身元証明にしようなんてしてましたけど、貴方には「発言責任の担保=身元証明」となるような、継続的なホームページやブログなどがあるのでしょうか? ま、ともあれ、ご自分の文章が正確に引用されていないことについてご不満がおありなら、文句は管理者に言うべきですし、ご自分で再度、原文をアップすべきでしょうね。 でも、それをしないのなら、やむをえず正確を期せなかった紹介文について文句をいう筋合いは貴方にもないし、偉そうなことを言っても、所詮は貴方が管理者に媚びた、この掲示板の「寄生者」の一人だということにもなるでしょうね。 >「ピン」の右翼とは?「キリ」の右翼とは?ぜひ、アレクセイさんの「右翼のピンキリ」の定義を教えてください。ついでに「左翼のピンキリ」についても御教示いただけるとうれしいんですが。 「まず定義ありき」の理科学系のジャーゴンならばともかく、人文系の用語について、やれ「定義は何だ?」などと問いたがるのは、「2ちゃんねるの厨房」特有の悪い癖(使い古された手管)ですよ。そんなことだから「私は興奮していない。興奮しているのは、おまえのほうだ」なんて、子供じみた反論をなさるんです(笑)。 ちなみに、私の中で、尊敬できる右翼としてイメージされるのは、まず鈴木邦男ですね。私は「右翼」の研究家ではないので、昔の人のことはよく知りませんが、鈴木邦男には、意見の異なる部分(天皇制など)はあっても、人間としての信頼性を感じます。 で、尊敬できない、あるいは、「右翼」の名に値しない人として目についたのが、ここでも書き込みをなさっている工藤猛さんです。 それにしても、私の評価としては、「朦朧言語」の「安手のネット右翼」である工藤さんよりも、「2ちゃんねるの厨房」そのままの加減乗除さんのほうが、よほどくだらない人間だと思います。工藤さんに比較したって貴方は、およそオリジナリティーのない「猿真似男」なんですからね。 ま、何はともあれ、一人前に扱って欲しかったら、「匿名」は止めた方がイイですよ。匿名の放言に、右翼も左翼もありません。それ以前の問題ですからね。 ちなみに、貴方のご発言のログも採るようにしていますし、いずれそのまま紹介させていただきますので、その折はまた、四の五の言わずに、なにとぞよろしく(笑)。』(全文) 最後の投稿に『今日は、これくらいにしといたる』とありますとおり、翌日からも、このパターンによる反撃はあり得たわけでございますが、それでは芸もなく、外見上、掲示板荒らしに似たものになってしまいますから、私は、この「問答無用の削除」の事実をまとめた上で、それを紹介する投稿において、再び反撃の狼煙をあげようと考えました。 ところが、私が「問答有用」から「排除」されて以降、ご承知のとおり、加減乗除さまが当「アレクセイの花園」の方へ書き込みに来られるようになり、加減乗除さまとのやりとりにおいて、掲示板「問答有用」の存在意義をあぶり出すことが出来ましたので、私の「問答有用」へのひさびさの投稿(反撃の狼煙)は、当初の予定に反して、次のようなものになったのでございます。 その熊谷氏が管理運営する掲示板「問答有用」で戦わされている議論とは、いったい何なのか? また、この掲示板の存在意義は、奈辺に存するのか。それを論じたのが、以下のページです。 を、熊谷氏の掲示板「問答有用」の方へご報告ご紹介し、さらに「その後の議論の展開状況」を続けてご報告いたしましたところ、私の投稿(書き込み)の多くが、あちらの「問答有用管理人団」なるものによって削除されたという経緯につきましては、すでにホランドくんが、 において、報告してくれたとおりでございますが、その後、私は熊谷伸一郎氏から、ひさしぶりにメールをいただくことになりました。 この熊谷氏からのメールをご紹介し、その意味するところを解説させていただく前に、この「突然の来信」にいたる「一連の経過」を、ここでまとめておきたいと存じます。 『この議論(※「平和運動家論争」)に関しましては、当初から熊谷伸一郎氏との間で、お互いのサイトで公開しようという話になっておりましたが、お忙しいせいか、熊谷氏の方ではいっかな公開される様子が無いので、私が公開したものを、こちら(※ ブログ『熊之巣』の掲示板「問答有用」)へもご紹介に上がりました。/熊谷氏が、このブログのコンテンツのひとつとして、ご自分の手でこの記事を(固定的に)ご紹介下さる日までのつなぎとして、上記のページをご参照いただければと思います。』(書込みNo.46375より) その後、ご承知のとおり、当「アレクセイの星座」の方へ、「問答有用」の常連投稿者で、自称「右翼」の工藤猛さまがお書き込みにおいで下さり、私と工藤さまとの間で若干のやりとりがございましたので、それをご報告する書き込み、 『わたしもアレクセイさんのサイトを見せていただきました。大変興味深い内容だと思います。熊谷伸一郎氏が政治運動を利用していろんなことをする人間だとの認識は以前から持っていましたが、このような形ではっきりと示された文章を読んで、そうした認識を再確認しました。 これはわたしからの一方的な提案ですが、アレクセイさんが、ご自分のサイトに書かれている文章を少しずつでもよいので、この掲示板に転載されてはいかがでしょうか。この掲示板で直接文章を読めば、掲示板の読者もより低コストであなたの文章を読むことができますし、熊谷伸一郎氏との議論を促進する機会にもなるのではないかと思います。 ついでに申し上げますが、工藤さんは独り言の好きな人ですので、敬して遠ざくのが賢明なやり方かと思います。』(全文) 『それはやるべきではないでしょう。それでは、自分の書いたものをただ宣伝している「迷惑投稿」に等しいものになってしまいますから。 投稿数は、できるだけ絞って、私が嫌いな人のお目汚しにならないようにしたい。――結局のところ、強制的に読ませることは出来しないし、嫌がらせで投稿しているわけではないんですから、(…)(※ 「平和運動家論争」)を「紹介」するだけで十分なんじゃないかと思います。 「現実を直視できない自分という現実」の直視を避けながら、それでも「平和運動」がやれているような気になっている人の、人間としてのあり方だって、まあ本人がそれで良いというのなら、それで仕方ありませんからね。』 『 毎度の宣伝ご苦労様です。ここは議論系の掲示板ですから御自分の掲示板の宣伝は一度するぐらいで十分ではありませんか? あなたの投稿を傍観しておりましたがそろそろ目障りになってきました。もちろん、「政治運動屋熊谷伸一郎」を批判するのならすればよろしい。他の掲示板の宣伝をいつまでも垂れ流す必要はないでしょう。 自サイトの宣伝行為は、その内容が当掲示板の趣旨に反する、あるいは無関係のものでなければ、一度だけは認めますが、二度三度と反復することはお断りします。 見てのとおり、明らかにこれは、私の投稿、それも「平和運動家論争」を紹介する投稿を、標的とした「警告」でございます。 また、それでいながら、あえて名指しせず、「一般論」に見せ掛けようと体裁を取り繕うところが、いかにも「熊谷伸一郎氏とその仲間たち」的な、(現・中国政府的)陰険姑息さを感じさせましょう。 『その内容が当掲示板の趣旨に反する、あるいは無関係のものでなければ、一度だけは認めますが、二度三度と反復することはお断りします。』 という部分を見ると、まるで、私が単に「平和運動家論争」の宣伝をくり返しているかのような印象を与えますが、私の投稿は、最初のもの(No.46375)以外はすべて「その後の展開を報告するもの」であって、単なる『反復』ではございません。 閲覧者が「その後の展開」の意味を理解するためには、その前提となる「平和運動家論争」を読んでおく必要があるので、そこにも「平和運動家論争」へのリンクを貼っておいたに過ぎないのでございます。 それを、熊谷伸一郎氏の意を受けて、あるいは意を汲んだ、あるいはまた熊谷氏本人の「隠れ蓑」である「問答有用管理人団」は、単なる『反復』宣伝であるかのように「難癖」をつけることで、「平和運動家論争」の紹介を妨害しようとしたのでございます。 これ以上「平和運動家論争」についての書き込みをさせないことで、いずれ掲示板上から「平和運動家論争」に関するそれまでの書き込みが流れてしまうのを待とうとしたのでございましょうね。 そのあたりを「忌憚なく」お聞かせ願えれば、論争の当事者として、私は無論、熊谷伸一郎も喜ぶのではないかと思います。なにしろ、この、 無論、熊谷さんも、これを多くの人に読んでもらい、自分の考えを広く知ってもらいたいと思っているはずですよ。なにしろ、天下の「岩波」文化人なんですから、よもや二言なんて無いはずです(笑)。 中国政府が、約束どおりチベットの亡命政府と会談をしたそうですが、「暴動への対処は、治安維持のため行った、完全に正当なものだった」という主旨のことを言ったそうな。 しかし、この2つの投稿のうち、文中に「平和運動家論争」へのリンクを含む前者は削除され、後者は臆面もなく残されることになりました。「皮肉は無視すれば良い」ということなのでございましょう。 また、私の『ところで、加減乗除さまは「政治運動屋熊谷伸一郎」を、どう評価なさっているのでしょうか?』という問いかけに対する「熊谷伸一郎なんて、ネットに掃いて捨てるほどいるネウヨやネサヨとどうレベルのものとしか思っていない」という主旨のレスを含む、加減乗除さまの書き込みも「削除投稿に関連するレス」として、私がログを採取する前に、私の前者の投稿(No.46423)と同時に、「問答無用」で削除されてしまいました。 > 問題は、一朝一夕には解決しないでしょうが、kamuiさんの今のご努力は、決して無駄にはならないと思います。園主さまともども、心から応援しておりますので、挫けずに、しぶとく頑張って下さい。 こんにちは。お読みくださりありがとうございます。しかし、読んでいて暗くなりそうな話ばかりですね。(苦笑) > そして、そういうものに、いったん身を委ねてしまうと、人はそれ(「つっかえ棒・浮き輪」的なもの)を失うことを、何よりも怖れてしまう。それを失うという事態を想像(予想)するだけで、人は自身の足元の大地が崩壊して、無限の奈落へと引き込まれていくような「恐怖」を感じるんでしょうね。 人間のそういう部分を非難しても、非難された相手側にすれば「絶対」という確信を持ったモノがないので、対話を拒絶するか退散するか、あるいは開き直って愚痴っぽくなるばかりでしたね。だからこそ、自分の考えを頼りに論理的に考えようとする人は、稀有な存在にならざるを得ないのでしょうね。 みなさん、こんばんは! ミステリ関連の賞が出そろったようなので、ご紹介方々、簡単にコメントをしておきたいと思います。 見てのとおり「第61回 日本推理作家協会賞」の<長編及び連作短編集部門>の方は、新鋭・門井慶喜の『人形の部屋』以外は、どれが受賞してもおかしくない、すでに評判の高い作品でしたが、本格ミステリ作家だけではなく、ハードボイルドや冒険小説系の作家も少なくない日本推理作家協会では、『果断2』が「凝った警察小説」として、満遍なく評を集めたのではないかと推測されます。 同賞<評論その他の部門>は、すでにいくつかの文学賞を受賞している最相葉月の『星新一 一〇〇一話をつくった人』と、「まだ受賞していなかったの?」という感じの大御所 紀田順一郎の『幻想と怪奇の時代』が、2作同時受賞。可能性としては『星新一 一〇〇一話をつくった人』の単独受賞か、この作品に、残る大御所2人(紀田と石上)のどちらかの作品を併せるという形が予想されたんですが、結果としては紀田さんの方が残りました。たしかこの本は、かなり昔の文章をまとめたもののはずで、その意味でも「この機会に」ということになって、「現役」の石上さんの方が後回しになったのかも知れませんね。 「第8回 本格ミステリ大賞」の<小説部門>は、前会長の有栖川有栖の話題作『女王国の城』が受賞。既受賞者である歌野晶午の作品は評判的に言ってもいちばん可能性が薄かったと思いますが、あとの3作はどれが取ってもおかしくはない作品だったと言えるでしょう。そうなると、「立場」というか「先輩から、どうぞ」という感じになるのは、どの世界でも同じことのようです。 『私の感想を忌憚なく申し上げますと、本書『探偵小説の論理学』は、なかなか「恥ずかしい本」だと申せましょう。 別に小森健太朗が「笠井潔の忠実な追随者(=金魚の糞)」であるからそう言うのではなく、わかりやすく申しますと、本書は、いかにも「神秘主義」傾倒者らしい幼稚な「博識自慢=博識依存」が、あまりにも見苦しい論文集だからなのでございます。仲正昌樹の新刊タイトルを借りて申しますと『知識だけあるバカになるな!』という感じ。』 『本書は「第8回本格ミステリ大賞」の「評論・研究部門」の候補作になっているそうでございますが、ミステリファンの私といたしましては、本書が受賞して、万が一にも専門の学者の目に触れた場合を考えますと、まことに心肝寒からしめられるところでございます。』 たぶん、一般的にも法月綸太郎の評論集の方が評判が良いだろうし、大方の予想は法月の受賞ということだったんじゃないかと思うんですが、法月は『生首に聞いてみろ』で<小説部門>を受賞しているので、そのあたりへの配慮がはたらいたのかも知れませんね。 ――ともあれ、園主さまがこの結果について、どのようにコメントするのかが、興味のあるところです(コワイもの見たさで/笑)。 工藤さまや加減乗除さまについては、園主さまがすでに書き尽くしておられるので、ボクとしてあえて付け加えることはありません。ただ、園主さまも書かれていたとおり、ご自分の現実を直視して、批評の起点となるご自身について、まず厳格な評価・検討を加えていく努力が何より大切だと、ボクも重ねて申し添えておきたいですね。 あれもこれも肯定することにより判断責任を回避し、そのことによって自分自身の「無節操・無責任・無思考」を肯定してしまうというやり方は、ひとまず楽なのかも知れないけど、それは、最後まで「自己欺瞞の負い目」を感じ続けなければならない道なんだということを忘れないで下さい。 > アレクセイさんの「平和運動家論争」を下記の私のホームページに掲載いたしました。どうぞ、ご確認下さい。ホームページは、まだまだこれからと言った内容ばかりですが自分の成長に併せて充実できればと思います。 ブログの方で、今ご自身にとって、とても大切な問題について、格闘的に「思考」しておられているんですね。 問題は、一朝一夕には解決しないでしょうが、kamuiさんの今のご努力は、決して無駄にはならないと思います。園主さまともども、心から応援しておりますので、挫けずに、しぶとく頑張って下さい。 > そういえば、中国に一定の割合で存在する、官報に対し批判能力に欠けた過激なナショナリストの全体主義性をみるにつけ、当時、僕が直に接した「“熱心な”活動家学会員」とダブってみえます。僕を目の前にして、イラク戦争の正当性を滔々と語った彼らを僕は一生忘れないでしょう。 園主さまもおっしゃっていましたが、「思想」であれ「愛国心」であれ「信仰」であれ、結局のところ、そうしたものは、多くの人にとっては「自分という、一個の弱くちっぽっけな存在」を下支えするための、存在論的「つっかえ棒」だということなんでしょうね。 突き詰めて考えてみると、この世界のあらゆることに、根底的かつ絶対的な根拠なんかないというのがわかります。つまり、ボクたちは、世界の中に「宙吊り」にされている。 そうした「現実」を、日頃のボクたちは「日常性」の中に埋没することで忘れているんですが、でも、人はふとしたことを切っ掛けに、そんな「現実」に直面したり、直面しかけたりして、それに心底「恐怖」する。そして、何か「すがるもの」はないかと手探りしたところに、「溺れる者の藁」のごとき「思想」や「愛国心」や「信仰」などがあったというわけです。 そして、そういうものに、いったん身を委ねてしまうと、人はそれ(「つっかえ棒・浮き輪」的なもの)を失うことを、何よりも怖れてしまう。それを失うという事態を想像(予想)するだけで、人は自身の足元の大地が崩壊して、無限の奈落へと引き込まれていくような「恐怖」を感じるんでしょうね。 だから、その「恐怖」、「自己喪失の恐怖」に比べれば、「見知らぬ他人の命」なんていう「観念的なもの」は、何ほどの価値も持たなくなるのでしょう。「昨今の中国人ナショナリスト」や「イラク戦争を肯定する創価学会員」の目に映っているのは、ボクたちが見ているような「他人の悲劇」ではなく、ただただ「自身の悲劇」としての「自己喪失の恐怖」なんだと思います。 ですから、彼らの「自己中心的な態度」を非難するだけでは、彼らを変えることは出来ないでしょう。まずしなければならないことは、彼ら自身が「怯えている」のだという、事実を教えてあげること。「怯えているからこそ、自分のことに精いっぱいで、他人のことを思いやれないのだ」という事実に気づかせてあげることなのではないでしょうか? 認めたくないでしょうが、貴方と園主さまとの力量の差は、歴然としていますよ。これはボクが、園主さまの身内だから言うのではありません。身びいきでそんなことを言ったって、ここをご覧になっている多くの読者のみなさんは、けっして納得しないばかりか、身びいきを語るボクの愚かさを、嘲笑するだけでしょうからね。 これは貴方の場合だって、同じなんです。貴方が、いかに突っ張って見たところで、傍目にその力量の差は歴然としている。それを駄々っ子のごとく否定してみせても、客観的には、何の意味もありません。むしろ貴方は、その「歴然たる事実(=力量の差)」を否認することによって、ご自分の愚かさを自己証明することになってしまっているんですよ。 きっと、まだお若いのであろう貴方には、自制ということが困難だったのでしょう。だから『何だ、逃げるのか』なんてことまで書いてしまった。それなのに、そんな貴方が、いきなりぴったりと書き込みを止めてしまったのは、――たぶん、お仲間からドクターストップ(自制ならぬ他制)がかかったからなんでしょうね。「君の方が正しいし勝ってるよ。だから、もうアレクセイの挑発になんか乗らないでおけ」といった具合の「助け舟」が。 でも、工藤猛さんにも書いたとおり、そういう「煽て(=欺瞞的慰め)」に飾られた「助言」に寄りかかって、現実の直視を回避するというやり方は、結局のところ『最後まで「自己欺瞞の負い目」を感じ続けなければならない道』なんだということを忘れないで欲しい。 ホントのことは、貴方自身だって気づいているんですよ。ただ、それを認めたくないだけ。認めたら、自分の存在意義が雲散霧消してしまうと怖れているだけ。――でも、それを認めた先にしか、貴方のホントの成長は無いんです。 > 人が「教養」を積むのは、「現実を知るため=現実に関する知識を得るため」というよりも「幻想を知るため=私たちが、いかに世界を見たいようにしか見ていないかを知るため」なのだと申せましょう。 > 「教養」の無い者がしばしば「迷信」に囚われるのは、彼が「現実」を知らないからではなく、大概は「幻想」というものを知らないからなのでございます。 > ですから、「自分の見たいようにしか世界を見ることできない=幻想に生きる」人間というのは、本質的な意味で「無教養」なのだと申せましょう。逆に言えば、「現実を直視する強さ」さえあれば、「教養」など必要ないのでございます。 > そして最後に、まとめとして平たく言ってしまえば、「他人の評価」を求めている間は、人はまだまだ知的に未熟なのでございます。 > 本物は、そんな凡庸なことなど求めず、ただ「曇りなき目で現実を直視し、それと向き合う生き方」、つまり「他人」や「世間」ではなく、「世界と直接対峙する生き方」を求める。――「知的である」とは、そういう態度をいうのでございましょう。 「知性」の問題というのは、結局のところ、「感情に由来する幻想」との対決、というところに行き着くんでしょうね。 > 譬えて言うならば、しばしばスポーツ選手というものは、オリンピックに参加することで「自分の成果」を発表できる機会を与えられるならば、そのオリンピックが、独裁国家のプロパガンダ(政治宣伝)ためのものであろうと何であろうと、そんなことをまったく気に掛けはいたしません。 > その、きらびやかで尤もらしい表舞台の陰で、どれほど多くの人が犠牲を強いられていたとしても、そんなことは「私たちの競技には、なんの関係もないことだ」と、そう思いたがるのございますね(=オリンピック・ボイコット反対の論理)。 > しかし、本当にそうなのでしょうか? この場合、彼らは、自らの自己実現・自己欲求のために「独裁国家のプロパガンダ」に加担している、ということにはならないのでしょうか? 「オリンピックと政治は別問題」だと主張する人というのは、結局のところ「そう思いたい」「そうでないと困る」ということでしかなくって、そういう「個人的な都合」をなんとか「正論であると思いたい」と思っているだけなんですから。 > 私はべつに、貴方さまのような「どこの馬の骨とも知れない」「頭の悪い」「無能・無名の」「匿名者」など、どうでもよいと思っているのでございますよ。 この部分は、一見すると、加減乗除さん個人を嘲弄しているように見えますが、反省心のある多くの人にとって、こうした言葉は、決して「他人事ではない」と思えるはずだからです。 つまり、ここで園主さまが、加減乗除さんのこととして書いている「負の性格」は、実際のところ、誰の中にもあるものなんですね。で、要は、それを認められるか認められないかというところで、大きな差になってしまうんです。 言い換えれば、加減乗除さんは、園主さまのこうした指摘を、是が非でも否定しようとした。一方、園主さまに評価されるような人というのは、自分のこととして指摘されずとも、こうした問題を自分に引きつけて考え、反省することができる。――重要なのは、この差なんです。 言うまでもないことですが、「反省」するというのは、「自分が悪かった、間違っていました。すみません」と思うことではなく、「客観的に見て、自分はどういう存在なのだろうか? 自分の態度はどう評価されてしかるべきものなのだろうか?」と「自己検証」することを言うんですね。 ご心配をお掛けいたしましたが、やはりLANケーブルの断線が原因だったようで、新しいものに交換しましたところ、あっさり復旧いたしました。 みなさま、またもやパソコントラブルでございます。現在、パソコンからの書き込みができない状態となっており、このご報告は携帯電話から行っております。 LANケーブルの断線が原因と思われますので、晴れれば明日にでも、LANケーブルを買いに出掛けたいと存じますが、もしかすると、いよいよ今度こそ新型パソコンの導入ということになるかも知れません。さて、どうなりますことやら……。(^^ゞ 人が「教養」を積むのは、「現実を知るため=現実に関する知識を得るため」というよりも「幻想を知るため=私たちが、いかに世界を見たいようにしか見ていないかを知るため」なのだと申せましょう。 「教養」の無い者がしばしば「迷信」に囚われるのは、彼が「現実」を知らないからではなく、大概は「幻想」というものを知らないからなのでございます。 ですから、「自分の見たいようにしか世界を見ることできない=幻想に生きる」人間というのは、本質的な意味で「無教養」なのだと申せましょう。逆に言えば、「現実を直視する強さ」さえあれば、「教養」など必要ないのでございます。 ただ、完璧に「現実を直視し」「幻想を排除できる」人などおりませんから、人は日々「知的な精進」を重ねるべきなのでございます。 そして最後に、まとめとして平たく言ってしまえば、「他人の評価」を求めている間は、人はまだまだ知的に未熟なのでございます。 本物は、そんな凡庸なことなど求めず、ただ「曇りなき目で現実を直視し、それと向き合う生き方」、つまり「他人」や「世間」ではなく、「世界と直接対峙する生き方」を求める。――「知的である」とは、そういう態度をいうのでございましょう。』 一般論的な表現なので少々わかりにくかったかも知れませんが、実例に即して考えれば、これはたいへんわかりやすいことなのではないかと存じます。 私は、加減乗除さまのことを、私やホランドくんよりも、明らかに「頭が悪い」、一般的基準に照らしても「頭が悪い」と評しました。これは無論、私やホランドくんが、特別に「頭がよい」ということを意味してはおりません。あくまでも、加減乗除さまとの比較においては、明らかに私たちの方が「頭がよい」と言っているに過ぎないのでございます。 これに対し、加減乗除さまはご自分の方が「頭がよい」と思っておられるようで、私やホランドくんのことをしきりに『バカ』だと評しておられます。 また、以前にもご紹介しましたとおり、加減乗除さまは、自身が書き込みをしている掲示板「問答有用」の管理者で、著名な平和運動家である 熊谷伸一郎氏についても「ネットに掃いて捨てるほどいる、ネウヨやネサヨと大差ない」存在であり、まったく評価していない、となさっております。 ――つまり、加減乗除さまは、私やホランドくんや熊谷伸一郎氏よりも、自分の方が「頭がよい」あるいは「優秀である」と自己主張なさっているのでございますね。 まあ、人は、どのような意見や見解を持ち、それを表明しようと、それ自体は「自由」でございますから、加減乗除さまがこのように主張なさること自体は、大いに結構なことかと存じます。 しかしながら、「公的な主張」というものの多くは、それが「論理的あるいは客観的に正しい見解」であるという認識の存在を前提としてなされるものでございますから、普通であれば、このような主張には「論理的な根拠(論理的説得)」か「客観的事実(証拠)」の提示が伴うものでございます。 例えば、私や熊谷氏には、公にした文章の社会的な評価とその蓄積(出版物やホームページのコンテンツなど)がございます。しかるに、加減乗除さまには、そういうものが、まったく無い。 加減乗除さまにあるのは、「問答有用」への書き込みと、ここ「アレクセイの花園」への書き込みのみなのでございますが、さすがの加減乗除さまも、ここ「花園」への書き込みを、ご自身の「頭のよさ」をしめす「証拠」だとは、おっしゃらないのではないでしょうか?(……保証の限りではないにしても)。だとすると、加減乗除さまの実績と呼べるものは「問答有用」での議論のみということになるのですが、加減乗除さまは「問答有用」にとっては『敵』方であり「批判派」であるそうなので、その場において、加減乗除さまを高く評価する人が多いとは、到底考えられません。 加減乗除さまは、「ネットに掃いて捨てるほどいる、ネウヨやネサヨと大差ない存在」だと、否定的な評価を与えている熊谷伸一郎氏について、 > 私がクマさんの敵であるという位置づけは問答有用での議論で確立していますが、それでも尚かつクマさんは私のことをそれなりに評価してくださいます。 と書かれていますが、この『それなりに評価してくださいます。』とは、具体的にはどういうことなのでございましょう? 当然、政治的立場を異にするのですから、対立する「意見」そのものを評価するわけではないでしょう。となれば、その「姿勢を評価する」といったことになるのでしょうが、ここ「花園」への書き込みを拝見するかぎり、加減乗除さまの問題点は、その「政治的見解」よりもむしろ、その「人間性(幼児性)に由来する、言論に関する姿勢」にあると思うのですが、いかがなものでしょう? それに、加減乗除さまは、「そこらのネサヨと大差ない」はずの熊谷伸一郎氏に『それなりに評価』されているのが、たいそう嬉しそうなご様子なのですが、これは奇態なことでございましょう。自分がまったく評価していないような、くだらない人間に評価されたって、普通そんなものは、嬉しくもなんともない。――ところが、加減乗除さまは、熊谷氏に『それなりに評価』されて、たいそう喜んでおられるご様子なのでございます。 結局のところこれは、加減乗除さまが、誰からもまともに評価されたことのない、評価(=他者からの承認)に飢えた方だという、何よりの証拠なのではないでしょうか。 だからこそ、自分が評価していない相手でも、自分のことを評価してくれれば(それは、稀有な事例として)嬉しいし、だからこそ、そんな相手ならば、「誉めてくれた」という感謝的好意に流されて、すくなくとも本音の部分では「論敵である私を評価するなんて、熊谷伸一郎もそれなりに大したやつだ」などと、つい「高く評価」してしまう、というわけでございます(つまり、加減乗除さまの語る「熊谷伸一郎の加減乗除評価」とは、加減乗除さまの「熊谷評価の裏返し」であり「願望充足的投射」である可能性が、きわめて高い。「私も評価しているのだから、相手も評価しているだろう。我々は好敵手である」といった幻想的自己満足)。 > 「頭の悪い味方より、頭の悪い敵の方が、利用価値が高い」ということを、貴方は知らなくても、熊谷伸一郎氏は知っているというだけの話でございますよ(笑)。 ということを書きましたが、無論、加減乗除さまはこれを「理解」なさってはおりません。だからこそ、これを、根拠を示して否定することをしようとはなさらない。 そもそも、こんなふうに(熊谷氏から、利用されている・踊らされている、と)は考えたくないから、この可能性からは目をそらし、そういう「イヤな可能性の存在」を指摘する、この私の存在の方を否定しようと躍起になられるのでございますね。 ですが、そんなことでは、ご自分の心は(一時的に)誤魔化せても、第三者の目は誤魔化せませんので、ここでは上の指摘を、さらに平易に解説して、いやでも加減乗除さまの「心の目」に触れるようにしておきたいと存じます。 「頭の悪い味方より、頭の悪い敵の方が、利用価値が高い」――これは、「頭の悪い味方」はしばしば足手まといにしかならないが、「頭の悪い敵」は騙して逆用できるということでございます。 知ってのとおり、掲示板「問答有用」は、「平和運動家」であり「左翼」に分類されるであろう熊谷伸一郎氏が立ち上げた、政治談義のためのネット掲示板でございます。 そしてそこへ、「右翼」として書き込みをしている工藤猛氏や、『敵であるという位置づけは問答有用での議論で確立しています』と自己紹介する加減乗除さまは、「問答有用」では、主催者である熊谷氏とそのお仲間とは、対立する意見の持ち主だと申せましょう。 さて、ここで考えていただきたいのは、熊谷伸一郎氏とそのお仲間の意見を、完璧に論駁してしまうような有能な論者(批判者)は、熊谷氏の掲示板である「問答有用」において、はたしてその存在を保証されうるものでしょうか? もし、保証されるとすれば、その掲示板では「批判者の側の意見の正しさ」ばかりがアピールされることになってしまうわけですが、そんなことを掲示板を立ち上げた者が、容認し続けるものでございましょうか? ましてや、あの「平和運動家論争」において、「異論排除」好きであることが明らかにされた熊谷伸一郎氏の掲示板において、そんなことがありうるものなのか? という指摘があるとおり、その「批判」が鋭く本質的であったがために、掲示板「問答有用」から「排除」され(その事実まで隠蔽され)た批判者は、一人や二人ではないでしょう。 ならば、批判者や反体制派を標榜しながら、それでも「問答有用」に書き込みすることを、管理人である熊谷氏から「許され続けている人たち」とは、いったい「どういう意味を持つ存在」なのでございましょう? そうした存在の実例として、私たちがよく知る、工藤猛氏と加減乗除さまを見るかぎりにおいて申しますならば、熊谷氏がこのお二人に書き込みを許すのは、彼らの存在とその主張が、熊谷氏にとって「まったく無害」であり「なんの痛痒も感じさせないもの」、つまり「批判・異論としての価値を持たないもの」だからだと申せましょう。だからこそ「泳がせてある」。 「毒(パルマコン=薬)になるやつ」におられては困るけれど、「毒にも薬にもならない存在=どうでもいいやつ」ならば、「枯木も山のにぎわい」で、別にいてもかまわないし、そんなやつが「批判者」「反体制」を名乗るのであれば、そういうやつは、いてもらった方が、むしろ「得策」である。 なぜならば、そういう「どうでもいいやつ」を泳がせておくだけで、世間に向けては「敵方の意見にも耳を傾ける公正さや寛容性」があると「見せかけること」ができるからでございます。 また、すでに指摘しておりますとおり、本質的な部分で「自信」が無いために「承認願望」が極めて強く、そのために「他者依存」的にならざるをえない、工藤猛氏や加減乗除さまのような存在は、自分たちを(ひとまず形式的にでも)受け入れてくれ、居場所を与えてくれる存在、換言すれば「甘やかせてくれる」存在には、極めて従順なのでございます。 たとえ、口では「いや、熊谷なんてぜんぜん評価していない」とか「私は、敵として認知された存在だ」などと、その「自立性」を自己アピールしてみたところで、本質的なところでは、 > 私がクマさんの敵であるという位置づけは問答有用での議論で確立していますが、それでも尚かつクマさんは私のことをそれなりに評価してくださいます。 また、熊谷伸一郎氏のようなしたたかな「政治人間」は、このような人たちの心の機微(弱さ)につけ込むのが極めて上手でございますから、「君とは、意見も立場も違うが、君個人には人間として見るべきところがあるね」などと(露骨な言葉にはしなくても、そうしたニュアンスを漂わせて)、相手の尻を掻いて(煽てて)「手なずける」ことくらい、平気でするのでございます。 ――このくらいの芸当ができなければ、「党派」を形成して「動員」をかけるなんてことは、到底できることではないのでございますから。 しかし、裏を返せば、こういう「私は右翼だ(でも、あなた方も認める)」とか「私はあなた方の敵だ(でも、あなた方が好きだ)」といった「ヌルイ人(不徹底・半端な人)」だけが、「批判者」としてその存在を許容される場所(掲示板)での「議論」とは、いったいどのようなものなのでございましょうか? ――当然のことながら、それは「どうでもいい、ヌルイ議論(不徹底で半端な議論)」だということになりましょう。そこで、どのような応酬がなされようと、そんなものは、どこにも何にも、まったく影響を与ええないのでございます。 つまり、掲示板「問答有用」の存在意義とは、そこでの「議論の中身」にあるのではなく、「議論がなされているという形式」にあるのだと申せましょう。 「ここでは、いろんな意見が自由に表明され、活発な議論が交わされていますよ」ということ(=嘘)を「宣伝」できれば、それでいいし、それ(プロパガンダ)をするためにこそ、掲示板「問答有用」は、熊谷伸一郎氏個人とその党派の(利益の)ために、存在しているのでございます。 しかしながら、こういう「本質的なこと」は、そこで呑気に「政治談義」を交わしている人たちには、どうでもいいことでございます。彼らは、そこまで考えないし、考えたくもない。 譬えて言うならば、しばしばスポーツ選手というものは、オリンピックに参加することで「自分の成果」を発表できる機会を与えられるならば、そのオリンピックが、独裁国家のプロパガンダ(政治宣伝)ためのものであろうと何であろうと、そんなことをまったく気に掛けはいたしません。 その、きらびやかで尤もらしい表舞台の陰で、どれほど多くの人が犠牲を強いられていたとしても、そんなことは「私たちの競技には、なんの関係もないことだ」と、そう思いたがるのございますね(=オリンピック・ボイコット反対の論理)。 しかし、本当にそうなのでしょうか? この場合、彼らは、自らの自己実現・自己欲求のために「独裁国家のプロパガンダ」に加担している、ということにはならないのでしょうか? たしかに「人々がネット上で、政治談義をすること」も「スポーツ選手が、新記録を目指して、華やかな舞台で活躍をすること」も、それ自体は、素晴らしいことでもあれば必要なことでもございましょう。――しかし、そういう「大義名分=きれいごと」の陰に、他人を犠牲にしてでも自己の欲求を満足させたいという「隠された本音」が、しばしば隠蔽されているという事実を、私たちは忘れるべきではないし、そうした「隠された本質」を指摘するのが、批評家の役目なのだとも申せましょう。 例えば、TVでも「政治討論番組」がいくつもございますが、それがどのような「文脈」において機能しているのかという考察なくして、そこでの発言を追うだけ人には、本当の「政治」の姿というものは、金輪際、見えてこないのではないでしょうか。 ご自身『書き捨て』だとおっしゃっているとおり、あまりにも中身のないゴミ投稿なので、最初は、これ以上みなさまのお目汚しにならないように、削除しようかとも思ったのでございますが、この、 という言葉が、あまりにも「加減乗除さまの本質」をよく表わした、じつに「捨てがたい言葉」でしたので、やはり残して、みなさまにご覧いただくことにした、という次第でございます。 でも、貴方さまは、「そこらのネサヨ」並みの熊谷伸一郎氏に認められているのが、嬉しいのでございますよね。お幸せだこと(笑)。 > やっぱりバカですね。私は彼の掲示板の管理人に対して「匿名」ではなく、よって無責任な発言はしていないと言っているのです。匿名が全体に対する公開だけを指すのではないことくらい理解できませんかね?ラジオの匿名希望さんとは違うのですよ。 『私は彼の掲示板の管理人に対して「匿名」ではなく、よって無責任な発言はしていないと言っているのです。』――ということは、管理人に本名を明かしていない掲示板では、貴方さまは『無責任な発言』をするのだとおっしゃるのですよね。「2ちゃねらー」同様に。 > あなたのようなバカに使い道があるとは思いませんがね。ま、そうやって泣き言を書き綴っておればよろしい。ここはあなたの花園なのですからね。 > 「おっしゃっておられる」などという馬鹿な日本語を使って揶揄しても御自分の馬鹿を晒すだけですがね。 > おや、自分の非は認めずに逃げるのですか?相手を批判するだけは批判しておいて、自分のことは棚に上げる。他人を批判する資格がないのはあなたのようですね。ま、絶対謝罪しないだろうとは思っていましたがね、このタイプの人間はいつもそうだ。 私はべつに、貴方さまのような「どこの馬の骨とも知れない」「頭の悪い」「無能・無名の」「匿名者」など、どうでもよいと思っているのでございますよ。しかしながら、熊谷伸一郎氏という有名かつ欺瞞的な平和運動家を批判するためには、熊谷氏の(無自覚な)「取り巻き」の一人である貴方さまは、ちょうどよい「素材」だったのでございます。つまり、本日、先に書きましたとおり「熊谷伸一郎は、こんな勘違い男を泳がせておくことで、自己の寛容や公正を、欺瞞的に演出して見せている」ということを指摘するために、やむをえず貴方さまのお相手をしたのでございます(したがいまして、今はもう「用済み」ですので、どうぞご安心くださいまし)。 それに私は、教育者でもなければ心理カウンセラーでもございませんから、貴方さまの人間性までどうこうするは出来ず、ただ「事実を指摘すること」しか出来ないのでございます。つまり、日頃、批評家としてやっておりますとおり「駄作は駄作としか言い様がない」としか書けないのでございますね。――無論、駄作の駄作たる理由は、示しますけれども。 それから、『何だ、逃げるのか』とのことでございますが、私は「叱られたことに逆上して、泣きながらむしゃぶりついてくる子供」とか「酔っぱらい」とか「精神錯乱者」とか「変態ストーカー」などからは、さっさと逃げることにしております。 そういう「言葉の通じない人」たちから「逃げるのか!」と言われて、意地になって、まともに相手になるなどというのは、あまりにも「おとな気ない」態度であり、みっともないことだと考えるからでございます。 ですから、「あしらっている」ような感じが窺えましたら、その点はどうぞご容赦下さいまし。私は決して、たとえ本名を聞かされたところで、どこの誰とも知れない貴方さまのことを、本気で憎んだりしているわけではないのでございます。まあ、「袖擦り合うも多生の縁」くらいにご理解いただければ、幸いと存じます。 では今夜も「僕は賢いんだ。アレクセイの方がバカなんだ。クマさんも僕のことを認めてくれている」と、百編唱えてから、就寝なさって下さいまし。――これからは、夢の中だけでお会いしましょう。 >「匿名」とは「名前を公開していない状態」を言うのに、『私はあちらの管理集団に実名を伝えて』あるからといって、それがなんだとおっしゃるのでしょう? やっぱりバカですね。私は彼の掲示板の管理人に対して「匿名」ではなく、よって無責任な発言はしていないと言っているのです。匿名が全体に対する公開だけを指すのではないことくらい理解できませんかね?ラジオの匿名希望さんとは違うのですよ。 >「頭の悪い味方より、頭の悪い敵の方が、利用価値が高い」ということを、貴方は知らなくても、熊谷伸一郎氏は知っているというだけの話でございますよ(笑)。 あなたのようなバカに使い道があるとは思いませんがね。ま、そうやって泣き言を書き綴っておればよろしい。ここはあなたの花園なのですからね。 >「僕は賢いんだ。アレクセイの方がバカなんだ。クマさんも僕のことを認めてくれている」と、百編唱えてから就寝なさることをお薦めします。 おや、自分の非は認めずに逃げるのですか?相手を批判するだけは批判しておいて、自分のことは棚に上げる。他人を批判する資格がないのはあなたのようですね。ま、絶対謝罪しないだろうとは思っていましたがね、このタイプの人間はいつもそうだ。 > 因みに私が彼の掲示板で「匿名」であるというのはあなたの勝手な思い込みであって私はあちらの管理集団に実名を伝えています。 「匿名」とは「名前を公開していない状態」を言うのに、『私はあちらの管理集団に実名を伝えて』あるからといって、それがなんだとおっしゃるのでしょう? > 私がクマさんの敵であるという位置づけは問答有用での議論で確立していますが、それでも尚かつクマさんは私のことをそれなりに評価してくださいます。 「頭の悪い味方より、頭の悪い敵の方が、利用価値が高い」ということを、貴方は知らなくても、熊谷伸一郎氏は知っているというだけの話でございますよ(笑)。 「僕は賢いんだ。アレクセイの方がバカなんだ。クマさんも僕のことを認めてくれている」と、百編唱えてから就寝なさることをお薦めします。 >こうしたパターンは、加減乗除さまの場合もまったく同じで、ひとことで言えば加減乗除さまは「自分より明らかに優れた人間にケチをつけることで、自分の方がうわ手に立ったような気分になろうとしている(「2ちゃんねる」的に、単純幼稚な)人」なのだと申せましょう。 批判をされると途端に感情的になるという極めて2ちゃんねる的反応をしている方から指摘されても笑うしかありませんね。私は自分より優れた論客の存在を認めていますし、実際にそういう方々にコテンパンにやられた口です。念のために申し上げておきますが、アレクセイさんやホランドさんにはそのような知性あふれる方々の持つ論理性や説得力はまったく感じられません。 >加減乗除さまは掲示板「問答有用」で、掲示板への「寄生者」らしく、掲示板のレベルそのものを否定する私に対し下らない批判をあびせ、私から、 掲示板に集まる人間を「寄生者」呼ばわりする人間が掲示板の管理人をしていることの滑稽さがわからないのでしょうね。そういう感情的な嫌味でしか批判の出来ないあなたは哀れ以外の何ものでもありません。 とオチョクられると、「私は冷静だ。おまえの方が興奮している」などとやった、非常にわかりやすく「幼稚」な方だというのは、すでにホランドくんからも紹介済みでございます。 >よほど興奮なさっているのか、日本語にすらなっていませんが、私が冷静であったのは事実ですし、あなたの投稿が感情的であったのも事実です。というか、あなたの連続投稿の幼稚さにははっきり言ってあきれましたよ。 いや、答えたけど削除されたんですよ。あなたのせいで。で、私はブログも掲示板も持っていませんが、『問答有用』の管理人にメアドと実名を伝えた上で、ずっと同じHNで投稿をしています。それ以前に、あなたのあまりに限定的な条件呈示は(いつものことですが)あなたの視野の狭さをあらわすものでしかありません。 そうですよ。くだらぬレッテル張りにはそれを張り返すだけで十分です。特に自分のことが見えてない人にはね。 そっくりお返しします。つうか、子供っぽい規定違反の連投に嫌味の数々。お仲間は批判しないという見事な徒党精神もお笑いですね。 そろそろ飽きてきましたが、これが断言しただけに見えると言うことはやはり何も考えてないと言うことですね。 >『投稿規定を読めば、その行為が規定違反であることがはっきり書かれています。私の嘘でないことは証明できましたね。』(同上) これも「断言のみ」ではないですね。私の嘘でないことは投稿規定によって証明されると言っているのです。日本語は苦手ですか? その前の指摘を無視すれば「断言のみ」になるのは当たり前です。洞察力がないと言うよりは人の主張を理解しようとしていないようですね。 やはりバカは底なしのようです。もとの投稿を読めば明らかです。ついでに言えば、あなた自身が私に尋ねたから答えたのですが、私は「興味がない」という意思表示(つまりは否定でも批評でもない)しかしていません。あなたが妄想によって創り上げた「ネサヨ」なる言葉は使っていません。子供云々言う前に自分の読解力を反省すべきでしょう。 >『あなたもここに寄生して一番上の気持ち悪い絵で園主様の傍らに鎮座なさっているのでしょ?』(子供っぽい憎まれ口) >『あなたが実名を晒そうが晒すまいが私には興味のないことです。「匿名は是か非か」とでも題して問答有用で議論してみてはいかがですか?あなたではとてもまともな議論が出来るとは思えませんが。』(一般論への摺り替えによる、身元の隠蔽・保身) どうでもいいですが、ネット上で発言する上でセキュリティを考えない人間はただのバカだと思っていますので身元の隠蔽・保身は当然のことだと思っています。それと「無責任な放言」は別の問題です。 >まあ、「論」にはなっておりませんので、正確には「反論」ではなく、単なる「否定・拒絶」にすぎないのではございますが、ともあれ、私に『かなり興奮なさっているようで』と揶揄されて、それを否定し、逆に「あなたの方こそ」なんて芸のない「おうむ返し」をやった人間が、また少し批判されると、このように芸もなく興奮して、子供っぽい「おうむ返し」をくり返してしまっているのでございます。 >そもそも、『社会常識』だとか『私たちはその庭先をお借りしているのですから掲示板のルールを守るのは当たり前です。』などと「殊勝なこと」を書く人間が、その口の根も乾かぬうちに、議論には何の関係もない「掲示板のトップイラスト」を『気持ち悪い絵』などと評したりするものでございましょうか? そりゃそうですよ。私は『問答有用』で左翼の方々と議論できることを感謝していますし、あなたの規定違反で私の投稿が削除されたことに怒りを感じていますから、その掲示板で禁じられていないギリギリのラインで不快感を表明します(一方、『問答有用』でも規定の許すギリギリで議論をしております)。そんな常識もわからないのでしょうか。もちろん、あなたがそれをやめてくれと言うのなら考慮はしますが、それにはまずあなたに自らの非を詫びてもらう必要があります。 私への返信に私への反論と御自分の掲示板への宣伝を併載したために私の返信が削除されたこと、また、不正確な記憶に基づいて私が「ネサヨ」なる言葉を使って熊谷伸一郎氏を批判したかのような印象操作(もしくは単なる勘違い)をして議論を進めていることについて謝罪をする勇気があなたにあるのなら(子供にはないでしょうけど)私はもう少し真面目にあなたの相手をするでしょうし、失礼についてはお詫びしますよ。 心配なさらなくても、かつて『問答有用』で活躍されていた類い希なる知性を持つ人々の足元にも及ばないであろうあなた相手にムキになったりはしませんのでご安心ください。 >これは、議論の相手に対し「やぶれた服を着ている癖に」とか「貧乏人の癖に」など、憎まれ口と言うのと同じことで、子供じみた「自制心の欠如」を端的に示す、「無自覚発言」なのだと申せましょう。 つまり、端的に申しますと、加減乗除さまは「論理的」ということも「倫理的」ということも、ともに理解できない「幼稚な人」なのでございますね。 まあ、幼稚でないとは言いませんが、相手を見て対応の仕方を決めているのは事実です。そして、それが私の倫理観です。 >自分で『私たちはその庭先をお借りしているのですから掲示板のルールを守るのは当たり前です。』と言いながら、そのことの意味が理解できず、この掲示板の『庭先をお借りして』いながら、「議論における、当たり前の礼儀やルール」も弁えられない。――言いかえれば、加減乗除さまは、工藤さまと同様に「発言に一貫性のない」方なのでございます。 一貫性がないように見えるなら気の毒ですが、上で少し説明したので考えてみてください。そして、あなた自身がそう思うのなら彼の掲示板のルールくらい守ってください。私の投稿が削除されたのはあなたの責任です。 >> 加減乗除さまの理屈は「中国国民であれば、中国国家の定めた法律や政策にしたがうのは、当然だ。したがって、チベットの暴徒は、犯罪者でしかなく、治安維持のための鎮圧はまったく正当な行為であり、それを非難する外国の行いは、すべからく内政干渉である」という理屈と、まったく同じですよね。 >私に「熊谷伸一郎氏をどう評価するのか?」と問われて、すでに削除された書き込みの中で「熊谷なんて、ぜんぜん大したことない」などと大見得を切ってみせながら、それでもまだその熊谷氏の掲示板に寄生しているというのは、加減乗除さんに「自立能力」が無いという何よりの証拠だし、そんな人だからこそ「ルールの恣意的な行使」を黙認し、『社会常識』だの『掲示板のルール』だのを「大義名分」として振り回すしか、能がないんだ。 馬鹿は底なしだね。まず私は「大したことない」などと大見得を切ったりしていない。が、まあそれはいいとして、運動家としての熊谷伸一郎氏への評価と掲示板管理人としてのクマさんへの評価を同一視しているあたりが底なしの馬鹿ですね。他人の「能」を云々する知性があると思っている時点で哀れですね。 >ことが、そんなに簡単な話なら、「常識の側が、常に正しい」「ルールが、いつも正しい」ということになって「ナチスドイツのユダヤ人迫害」も「ソビエトの収容所群島」も「イスラエルのパレスチナ人殺害」も「中国のチベット政策」も、「その場においては」ぜんぶ「合法=ルールどおりの措置」ということで、正当化されることだろう。 ならばこの掲示板も投稿が即座に繁栄されるようにすべきだね。私的掲示板の意味がわかってない低脳が持ち出したのが全て公権力の発動であるところがお笑いです。バカに付ける薬はないというだけの話です。 >つまり、加減乗除さんが掲示板「問答有用」でやっている議論とは、この程度の事実からも逃避した上での、自己満足のためだけの「空疎な井戸端談義」に過ぎないということだ。 無知とは恐ろしいもので、彼の掲示板の管理については山ほどの議論の蓄積があるのですよ。その最初期にもめたのが他ならぬ私であるし、『問答』に見切りをつけた方も大勢います。何も私は『問答』の管理を全面的に肯定しているわけではなく、ただ、彼の掲示板で発言する以上はその掲示板のルールを守るのは最低限の常識であることをしっているだけの話です。その程度のことがわからないあなただから自分の掲示板に閉じこもって泣き言を書き連ねることしかできないのです。 つうか、常識がない人間に注意をしただけなのにここまで恨み言を書くとはよほど腹に据えかねたのでしょう。それなりに知性のある人なら私にぐうの音も出ないような批判を浴びせることが出来るでしょうに、ほとんど見当外れの嫌味しかかけないようでは『問答』での議論は避けた方がいいでしょうね。 >せっかく、最初の書き込みでは「常識人」を演じてみせたのに、2回目の書き込みで早速、自らその「化けの皮」を剥いでしまったのは、いただけませんね。あれは、貴方ご自身の「自制心の欠如という幼児性」に由来する、明らかな失策だと申せましょう。 さすが洞察力の無さはピカイチですね。化けの皮をはいだのではなくて、相手にあわせただけの話です。批判すべきはあなたのお友達の方ですね。それを失策と思いこんでいるあたりがあなたの限界です。つまりはあなたも同じ穴の狢というわけですね。 >私が「加減乗除という人は、こんな人だ」と書いたところで、多くの読者にとってのそれは「アレクセイの評価」でしかございません。しかし、貴方さまがご自身で、あんな「正体丸出しの文章」を書いてしまいますと、読者はそこから、それぞれに「加減乗除についての、自分の評価」を下してしまうことになるからでございます。 本気で言っているとしたらおめでたい人ですね。ここで下されたのはホランドさんという寄生虫の評価なのです。あなたには理解できないでしょうけど。 >ところで、ホランドくんからも「寄生者」呼ばわりされ、思わずお得意の「おうむ返し」で『寄生者ホランドさん』なんて書かれていましたが、厳密に申しますと、ホランドくんは、この掲示板の「寄生者」ではなく、「乞われて留まっているスタッフ」でございます。 ――加減乗除さまの場合、べつに熊谷伸一郎氏に乞われて「問答有用」に書き込みをなさっているわけではございませんよね? 当たり前ですね。それを寄生者呼ばわりする間抜けぶりにはあきれるほかありません。馬鹿は底なしという格言をご存じでしょう。で、壊れてとどまっているから寄生者ではないという単純思考はどこから出てくるのでしょうか? >端的に申しますと、熊谷氏からすれば、加減乗除さまは「いてもいなくてもよい人間=どうでもよい人間」であり、書き込みをさせてやっている「その他の大勢(の一人)」にすぎません。 まあ、害虫の存在感が大きいのは確かでしょうね。で、その存在感の大きさがあなたの存在意義と何の関係があるのでしょうか? やはりあなたは何もわかっていないのですね。私は一般論として匿名性の話をしているわけではありません。ただ、議論したいのならこんな寄生板ではなく問答に出ておいでといっているだけです。テーマなんぞ何でもいいのです。こんなオナニー掲示板ではなく議論系の掲示板として実績のあるところでね。因みに私が彼の掲示板で「匿名」であるというのはあなたの勝手な思い込みであって私はあちらの管理集団に実名を伝えています。それに、私が彼らとお友達でないことは彼の掲示板での議論をさかのぼって読んでいただければわかるはずです。 >ホランドくんは、私に勝るとも劣らぬ「論客」であり、私は彼の力量を評価しているからこそ、この掲示板で「助手」をやってもらっております。彼は、時に突っ走りがちな私の手綱をひいて、バランスをとってくれる、大変ありがたい存在なのでございます。 まあ、あなたに勝ってもどうということがないのは分かり切ったことですから聞き流しますけど。自己顕示欲の空回りは哀れですね。 >そんなホランドくんが「一般論としての匿名問題」を語ったのではないというのは、彼自身が「匿名」であることからも、明らかでございましょう。「匿名」が無前提に悪いもの・やましいことだと考えていれば、「匿名」者であるホランドくんが、他人の「匿名」を批判し(て、墓穴を掘るようなことをし)たりしないのは、わかりきった話なのでございますよ。 つまり、彼は、貴方のような力量も責任感もない人間(子供)が、「匿名」をよいことに、無責任な放言をまき散らす、その「個人としての振舞い」を問題にしたのでございます。 もし彼が匿名なのだとして、あの言いようが「無責任な方言」でないと思うのならあなたの洞察力の無さは救いようがないというだけの話です。というか、私は無責任な方言などしないし、あなたは私が使ってもいない「ネサヨ」なる言葉を使って私を批判するという信じがたい「無責任」ぶりを発揮しているわけですからやはり救いがありません。匿名でないあなたはその責任をどう取るおつもりですか?それとも名前はただ単にさらしているだけですか?いや、あなたが晒しているという名前(興味がないので確認はしてませんが)が実名であるという証拠はどこにあるのですか? >したがいまして、私も、ホランドくんが「匿名」であることを批判したりはいたしません。彼は「匿名」を悪用したりはしませんし、彼の発言については、この私が「身元保証人」として、その責任を引き受けております。彼には、そうするだけの「中身がある」のでございます。 あなたにその資格がないことは言うまでもありませんし、彼が匿名を悪用したことはもう御理解いただけたでしょうか? その必要があると思っているのならネット界から出ていった方がいいですね。という以前にホランドさんを保証するあなたを保証する人がいるのですかね?私がクマさんの敵であるという位置づけは問答有用での議論で確立していますが、それでも尚かつクマさんは私のことをそれなりに評価してくださいます。ただ、ネット界でも現実世界でも誰かの評価に過剰に依存する人間は哀れです。あなたに対する支持表明はあなた自身が告白するように極めて少なく、それこそがあなたへの評価なのです。お友達自慢などみっともないだけなのがわかりませんか? >ちなみに、ご存じないと思いますので教示させていただきますが、ホランドくんは竹本健治の推理小説『ウロボロスの基礎論』(講談社ノベルス)に、有名推理作家に混じって登場し、たいへん重要な役どころで活躍しておりますよ。その意味でも、一般に、彼は「どこの馬の骨とも知れない人間」とは言えない存在なのでございます。 ええ、まったく存じませんし、だから何なのかという思いしかありません。掲示板上では発言したことだけが全てです。なんだか読んでて気の毒になってきました。 それはそっくりあなたに返します。『問答有用』でのあなたへの投稿は決して悪意からのものではなかったにもかかわらずあなたが感情的に反応したに過ぎません。また、こちらの掲示板への「お願い」も真摯な気持ちからのものであったのにホランドさんの感情的な反応が返ってきたのでそれぞれのレベルに対応したのです。ちなみに、あなたがまあ常識的な冷静さを持ち合わせておらぬことは『問答有用』での感情的な規定違反の連続投稿によって明らかです。というか、自分の掲示板は事前チェックまで行っているのに他の掲示板の管理にケチをつける神経がわかりませんね。 >の三部作を構成しており、連続性も強いので、できれば3册をご通読の上で「ご感想」をいただければと存じます。 なんども申しておりますとおり、貴方さまの『独り言作戦』による『煙幕』は、誰よりもまず、貴方さまご自身の目を曇らせているのでございますよ。ですから、多弁で自分を誤魔化さずに「黙って思考する(沈思黙考する)」努力をなさってくださいまし。 60歳でも、決して遅くはございません。人は、いくつになっても向上心を持たねばならない。なぜならば、向上心を失った時、人は何歳あっても、そこから退化・退行するものだからでございます。 ともあれ、これまでのような「一方通行」の書き込みならば、この掲示板へのお書き込みはご遠慮願いたいと存じます。この掲示板でも、「単なる自家宣伝」や「自己顕示のためだけの書き込み」、あるいは「議論を拒絶した、独白的批判」はお断りしておりますので。 せっかく、最初の書き込みでは「常識人」を演じてみせたのに、2回目の書き込みで早速、自らその「化けの皮」を剥いでしまったのは、いただけませんね。あれは、貴方ご自身の「自制心の欠如という幼児性」に由来する、明らかな失策だと申せましょう。 私が「加減乗除という人は、こんな人だ」と書いたところで、多くの読者にとってのそれは「アレクセイの評価」でしかございません。しかし、貴方さまがご自身で、あんな「正体丸出しの文章」を書いてしまいますと、読者はそこから、それぞれに「加減乗除についての、自分の評価」を下してしまうことになるからでございます。 ところで、ホランドくんからも「寄生者」呼ばわりされ、思わずお得意の「おうむ返し」で『寄生者ホランドさん』なんて書かれていましたが、厳密に申しますと、ホランドくんは、この掲示板の「寄生者」ではなく、「乞われて留まっているスタッフ」でございます。 ――加減乗除さまの場合、べつに熊谷伸一郎氏に乞われて「問答有用」に書き込みをなさっているわけではございませんよね? 端的に申しますと、熊谷氏からすれば、加減乗除さまは「いてもいなくてもよい人間=どうでもよい人間」であり、書き込みをさせてやっている「その他の大勢(の一人)」にすぎません。 その点、私は、熊谷伸一郎氏からすると「おられては困る人間」なのでございます。――どちらが、熊谷氏にとって「存在感」のある人間かは、もはや言うまでもありませんよね(笑)。 それから、ホランドくんが言っているのは、「貴方(加減乗除)の匿名性」の問題であって、貴方がおっしゃるような、 ホランドくんは、私に勝るとも劣らぬ「論客」であり、私は彼の力量を評価しているからこそ、この掲示板で「助手」をやってもらっております。彼は、時に突っ走りがちな私の手綱をひいて、バランスをとってくれる、大変ありがたい存在なのでございます。 そんなホランドくんが「一般論としての匿名問題」を語ったのではないというのは、彼自身が「匿名」であることからも、明らかでございましょう。「匿名」が無前提に悪いもの・やましいことだと考えていれば、「匿名」者であるホランドくんが、他人の「匿名」を批判し(て、墓穴を掘るようなことをし)たりしないのは、わかりきった話なのでございますよ。 つまり、彼は、貴方のような力量も責任感もない人間(子供)が、「匿名」をよいことに、無責任な放言をまき散らす、その「個人としての振舞い」を問題にしたのでございます。 したがいまして、私も、ホランドくんが「匿名」であることを批判したりはいたしません。彼は「匿名」を悪用したりはしませんし、彼の発言については、この私が「身元保証人」として、その責任を引き受けております。彼には、そうするだけの「中身がある」のでございます。 ――それに比べて、貴方には、他人が保証してくれるような「中身」がございますか? 熊谷伸一郎氏は、貴方の身元や「中身」を保証してくれるでしょうか? 「彼の言うことなら、私が保証する」などと、誰か「名のある人」が、貴方のことを保証してくれるでしょうか? ちなみに、ご存じないと思いますので教示させていただきますが、ホランドくんは竹本健治の推理小説『ウロボロスの基礎論』(講談社ノベルス)に、有名推理作家に混じって登場し、たいへん重要な役どころで活躍しておりますよ。その意味でも、一般に、彼は「どこの馬の骨とも知れない人間」とは言えない存在なのでございます。 ――またぞろ、悔し(妬み)紛れに、読み齧りで憎まれ口など書かず、書くんなら、ちゃんと読了してから、ご感想をお願いいたします。なお、この作品は、 の三部作を構成しており、連続性も強いので、できれば3册をご通読の上で「ご感想」をいただければと存じます。 > アレクセイさんの「平和運動家論争」を下記の私のホームページに掲載いたしました。どうぞ、ご確認下さい。ホームページは、まだまだこれからと言った内容ばかりですが自分の成長に併せて充実できればと思います。 > 僕なぞは、「思想」などと大袈裟なものではないにせよ、あらゆる歴史的事象によって、自身の「左的気質」が些かの揺らぎ覚えたことが一度もないのです。ソヴィエトが崩壊しようが、拉致事件が明るみになろうが、昨今の中国共産党の危険な側面を垣間見ようが、全く揺るぎません(*)。北朝鮮は勿論のこと、中国共産党も「アホだ」「バカだ」「愚かしい」とテレビを前にのたまってるだけです。 > それは何故かと考えていたのですが、僕の「左気質」は、あまり国家の体制とコネクトしていないからだと思うんです。だから「崩壊」しようが「解体」されようが、全く関係がない。特に僕は「ナショナルな意識」が年をとるごと希薄になり、行きつく果ては、国家を最低限に必要不可欠として迫られる「仕組み(=制度)」と「機能」くらいにしか思わなくなったのです。だから、領土問題といった国家意識(ナショナリズム)を刺激するような事象には、とんと関心がないばかりか、寧ろ領土問題で熱くなる国家意識を持つ人々の「心理状況」のほうに関心が向くのです。 > 例えばスポーツを観ても、「ナショナルな意識」が昂揚することもありませんので、斯様なものに恥や誇りという意識もかなり不感症です。国家という機能に付加される価値(=歴史的誇りなど)なんて、社会学的興味は惹きますが、より上位層としてのワタクシ的イデオロギーまで高められ、「ワタクシの自負」と連関して考えることることもありません。 > (*)アレクセイさんに出会ったのは、僕が最も精神的「揺らぎ」、屈辱と惨めさを覚え、死ぬまで忘れまいと怒りに震えた、多くの「創価学会員イラク戦争容認問題」でした。 > 如何に世界史上で歴史的な展開をみせようと、僕の「左気質」はビクともしなかったのに、人生であれほど「敗北感」を覚えたことはありませんでした。僕はもう信仰者を自負できないかもしれませんが、未だに信仰者でありたいと未練を残す人間として、あれほどのショックはなかったのです。僕にとっては、ベルリンの壁崩壊よりも、ソヴィエトの崩壊なんかよりも、遥かに天地が引っくり返るような事件でした。昨日まで「反戦平和」を標榜してた純朴そうな人々が、いとも容易にウソを信じてしまう恐ろしさ。あれは僕の決定的な「何か」の崩壊であり、もしかしたら「何か」の再生の糸口になったかもしれません。 > そういえば、中国に一定の割合で存在する、官報に対し批判能力に欠けた過激なナショナリストの全体主義性をみるにつけ、当時、僕が直に接した「“熱心な”活動家学会員」とダブってみえます。僕を目の前にして、イラク戦争の正当性を滔々と語った彼らを僕は一生忘れないでしょう。 つまり、淳さまは「政治的・思想的な大事件」には「縁遠さ」を感じ、「信仰の問題」については「身を切るような身近さ」を感じた。その意味で、両者は一見したところ「縁遠い」ようでありながら、(3)の事例をみると、両者に本質的な共通点の存在を感じないでもない――と、そうお感じなのではないでしょうか。 もちろんこれは、そのとおりで、これらの問題に共通しているのは「世界の中の、寄る辺なき私」という根本問題なのでございます。 一般に「信仰」というものは、誰もが容易に持ちうるものでありながら、いったんそれに身を任せると、人は、それ無しには生きられない、という重要性(全存在性)を、それに感じるようになります。これは、「信仰」というものが、「思想」のような「人間の作ったもの」ではなく、「宇宙の本源的法則」の表現形式であり、より根源的重要性を持つ「選択の余地のない、絶対的な法則」であると考えられがちだからでございます。 言い換えれば、人間の作った「思想」は、いずれにしろ「絶対的」なものではなく、その意味では自ずと一長一短があって、選択の余地もある。ところが、「信仰」の場合は「正しいか、間違っているか」「本物か偽物か」「この信仰が正しければ、あの信仰は間違っている」といった「絶対択一式」のものであり、本質的に「選択の自由」の無いものなのでございます。 むろん「愛国心」などは、「出生地という偶然」に左右されるものでしかございませんから、すこしでも理性が働く人には「絶対的な価値」を持ち得ません。「この国で生まれた」という理由だけで、客観的に「この国が、一番素晴らしい」など信ずる論理は、とうてい成り立たないからでございます。 つまり、「信仰」というのは(まじめにやるならば)「自分の全存在」を賭けた、交換不能な「生の基盤」となるのでございますが、「思想」というのは、しばしば「自分=私」に附随する、交換可能な二次要素でしかございませんから、人は時にそれを容易に捨てさること(転向)もできますし、それを「飾り」として利用することも容易なのでございますね。 「愛国心」というのは、「信仰」と「思想」の中間形式だと考えればわかりやすうございましょう。「愛国心」は、「信仰」ほどには本質的ではないけれども、「思想」ほど観念的なものではない(=肉体的なものである)。だから、「信仰」的な執着の対象にもなりえるのでございます。 したがいまして、淳さまの場合は、最初に「もっとも根源的なもの」としての「信仰」の問題に向き合いましたから、それにくらべれば「思想」の問題など、何ほどのものでもないと感じられるのであり、「愛国心」の問題については、(比較的に)どこか無視しがたいもの(信仰との共通点)を感じるのでございましょう。 このようなわけで、これらは「別々の問題」と考えるのではなく、「同じ問題の、違う形での表れ」として総合的に捉えるべきであり、そうすれば、すべてがクリアに理解され、情念的な曇りも晴れるのでないでしょうか。また、このような視点から「信仰」の問題を突き放して考察すれば、多少とも「無用の重し」が取り除けるのではないかと存じます。 > そうそう、げんまささんは本当に面白い人で、「小説は人が死んでナンボでしょ」みたいなことをいってたのが凄く可笑しかったのを覚えています。 基本的には、淳さまと同様、真面目すぎて思い込みの激しいところに、少々難のある方なのではございますが(笑)。 > 加減乗除さまの理屈は「中国国民であれば、中国国家の定めた法律や政策にしたがうのは、当然だ。したがって、チベットの暴徒は、犯罪者でしかなく、治安維持のための鎮圧はまったく正当な行為であり、それを非難する外国の行いは、すべからく内政干渉である」という理屈と、まったく同じですよね。 私に「熊谷伸一郎氏をどう評価するのか?」と問われて、すでに削除された書き込みの中で「熊谷なんて、ぜんぜん大したことない」などと大見得を切ってみせながら、それでもまだその熊谷氏の掲示板に寄生しているというのは、加減乗除さんに「自立能力」が無いという何よりの証拠だし、そんな人だからこそ「ルールの恣意的な行使」を黙認し、『社会常識』だの『掲示板のルール』だのを「大義名分」として振り回すしか、能がないんだ。 ことが、そんなに簡単な話なら、「常識の側が、常に正しい」「ルールが、いつも正しい」ということになって「ナチスドイツのユダヤ人迫害」も「ソビエトの収容所群島」も「イスラエルのパレスチナ人殺害」も「中国のチベット政策」も、「その場においては」ぜんぶ「合法=ルールどおりの措置」ということで、正当化されることだろう。 つまり、加減乗除さんが掲示板「問答有用」でやっている議論とは、この程度の事実からも逃避した上での、自己満足のためだけの「空疎な井戸端談義」に過ぎないということだ。 みなさま、本日はすこし趣向を変えて、「知的であるとは、どういうことなのか?」という問題について論じてみたいと存じます。 現在、ここ「アレクセイの花園」には、(私とホランドくんは別にして)従来より書き込みを下さっている、淳さまとkamuiさまのお二人と、それに加えて最近、 のからみ、もともとは熊谷伸一郎氏の掲示板「問答有用」で書き込みをなさっている、工藤猛さまと加減乗除さまのお二人が、書き込みをなさって下さっております。 この4名の方は、いずれもそれぞれの仕方で「知的」たらんとしている方だと言えるのではないかと存じますが、そのスタンスには大きな違いがございます。そのへんを比較しながら、「知的であるとは、どういうことなのか?」ということについて、考えてみたいと思うのでございます。 まず、最初に取り上げるのが、自称「右翼」の工藤猛さまでございます。工藤さまに関しましては、私は既に「工藤猛論」とも呼ぶべき論文、 を書いておりますので、そこでの分析をここでくり返すことはしませんが、簡単に申しますと、工藤さまの特性は「断片的な知識を脈略もなく書き連ねることで、内実の空虚さを隠蔽しているだけの人」ということになりましょう。 例えば、私は前回、自称「右翼」の工藤さまが、「右翼」に関していったいどれほどの認識を持っているのだろうかと思い、そのひとつの目安として、工藤さまがどのような本を読んでいるのかをお尋ねしました。無論その際、私は、 『ところで、ここでひとつお尋ねしたいことがございます。工藤さまは、どんな本をお読みなのでしょうか? あるいは、どんな人を尊敬し、その意見を参照して、ご自分のあり方を規定なさっているのでございましょう? 小林よしのりを読まれ、その問題提起能力を評価なさっているというのはわかりましたが、工藤さまの「右翼」とは「小林よしのり」的なものを指しているのでございましょうか? 「右翼」であることを強調なさっておられる工藤さまのこと、もうすこし「右翼らしい右翼」として尊敬する人の一人や二人はいるのではないかと思われるのですが、 というお言葉には、明らかに「右翼」と「ネット右翼」の同一視が見られますので、少々疑問に感じたのでございます。――よもや、工藤さまのおっしゃる「右翼」とは、小林よしのりでナショナリストになったような「ネット右翼」を指しているのではないでしょうね?』(※) と、「質問の意図」を明示したのでございますが、工藤さまから返ってきたご回答は、「つい最近読んだ本は」と題する、みごとに的外れなものでございました。 私は、工藤さまに「右翼精神を抱かせるにいたった、どのような存在がいるのか?」とお尋ねしたのに、工藤さまは「最近呼んだ本」として『リンドバーグ・デッドライン』というリンドバーグに関する本を紹介なさいました。――くり返しますが、私が尋ねたのは「最近読んだ本は何か?」ということではなく、工藤さまに「右翼」的影響を与えた本はあるのか、あれば教えて欲しいということだったのでございます。 こうした「的外れな回答」から窺えるのは、工藤さまが「右翼」を自称するわりには、「小林よしのり」以上の「右翼的教養」を持っていない、という事実でございましょう。 まとまりのない知識をひけらかすのがお好きな自称「右翼」の工藤さまであれば、新旧を問わず、所謂「右翼」と呼ばれる人の著作を読んでいたならば、たとえ理解できてはいなくとも、それをひけらかして見せただろうことは、容易に推測の適うところでございます。なのに、それをしなかったのは、もともとまったく、そのような著作を読んでいないからだと見て、まず間違いはないと申せましょう。 さらに申しますと、工藤さまが読まれている本で、もっとも見栄えのする(ひけらかし甲斐のある)本が、上記の『リンドバーグ・デッドライン』であったというのも、ほぼ間違いございません。 ご承知のとおり、工藤さまは自称「右翼」として、政治や思想について、なにやら「わかったようなこと」を語られるのを常となさいますが、実際のところ、工藤さまにそうしたことに関する基礎的な知識が欠けているというのは、ほぼ間違いのないところございます。 ただ、長い人生経験とネット経験のなかで、「2ちゃんねる」などを通して聞き齧った「断片的知識」だけはあって、それを適当に並べておられるだけであり、先の「工藤猛論」にも書きましたとおり、工藤さまには、思想的な背骨となり物事の判断基準となる、確固たる自分の思想などというものは、まったく存在しないのございます。 そうしたことは、「工藤猛論」に対する感想として書き込まれた「「病理学的」とな。おぬし、問答有用板の論者である あしな風なところもあるのか。多面的だ。」という長いタイトルの短いコメント、 私は、先の「工藤猛論」の中の、しごく拙い「統合失調文の贋作」において、ラカンについて言及しております。ところが、工藤さまは「精神病理分析」と聞いてと、フロイトとユングまでは言及できても、ラカンについては名前さえ知らないというのが、これではっきりするのでございますね。 もちろん私も、ラカンについての知識などほとんど持ち合わせてはおりませんが、それにしても「精神分析」や「精神病理学」あるいは「現代思想」というものに、少しでも興味を持っている者であれば、ラカンの名さえ知らないというようなことは、まずありえません。これは、車好きがベンツやBMWを知っていながらオペルを知らないなどということがありえないのと、同じことだと申せましょう。 つまり、工藤さまは、フロイトやユングについても、ほとんど何も知らず、少なくともその著書を1冊も読んだことがないのに、どっちが『好み』だなどと、知ったかぶっているだけのでございますね。 もちろん、工藤さまは、ご自分がフロイトやユングについてまったく無知であるというのを自覚なさっていますから、どちらを「評価する」とは言わず、ここは慎重に『ユングのほうが好みだな。』としたのでございます。「好み」で言うだけならば、たとえユング心理学の方が学問として劣っていたとしても、べつに問題はないからでございますね。――しかしながら、そもそも、その中身をまったく知らないのであれば、好きも嫌いもありえないのでございます。 つまり、工藤さまがここで、知りもしないものについて、出来もしない「趣味的判断」を無理にでも表明したのは、そのことによって「知ったかぶり」がしたかっただけ。平たく言えば、威張りたかっただけなのでございます。 ちなみに、工藤さまが、フロイトよりもユングを評価したのは、フロイトの方が先に有名になり世界的な評価をはくし、その後にユングが「ポストモダン思想ブーム」に乗って、日本でも高く評価されだしたという「歴史的経緯(前後関係)」があるからでございましょう。 また「俗流フロイト」を別にすれば、フロイト心理学というのは決して、簡単に理解できるような底の浅いものではございません。だからこそ、ラカンのような人が出てきて「フロイトにかえれ」と「日々新しきフロイト」を提唱したりもするのでございます。 その点、ユングの方は難しいことでは同じでも、その「アナロジー」の多用による「象徴分析」が、多分に「文学的」であり、その意味ではフロイトよりも「馴染みやすい=親しみやすい」という側面がございます。なぜ、ユングが「ポストモダン思想」や「オカルト」と結びつきやすいのかといえば、それは端的にいうと「論理的思考能力」が無くとも「わかったような気になれる」からに他なりません。 つまり、工藤さまが、フロイトよりもユングを『好む』としたのも、(1)歴史的に見て、ユングはフロイトを超克する存在として登場してきた、という前後関係による「単純な理解」があった、(2)ユングのほうが、印象として面白そうで、馴染みやすそうに見えた、という2点があったからでございましょう。 工藤さまは、あれこれ「知ったかぶり」をなさりたがりますが、実際には、ほとんどまともな「教養」がございません。言い換えれば、「教養」に対して「不誠実」なのでございます。 また、何よりも問題なのは、人並みの「判断能力=批評能力」が無い。未だそこまで「鍛えられてはいない」という点でございましょう。今風の言葉でいえば、工藤さまは「地頭」が悪いとしか言い様のない現状にあるのでございます。 くり返しますが、前述のとおり、私は工藤さまの「無教養」を非難しているのではございません。「知識」や「教養」などというものは、「金と時間」さえかければ「バカ」にでも貯えることが可能なものでございます。したがいまして、私の工藤さまに対する批判は、工藤さまがご「自分の現実を直視して、そこから成長しようとする態度」のまったくの欠如、つまり現実逃避的な「弱さ」にあるのでございますね。 もちろん、工藤さまには「地頭」が弱いという先験的な弱点もございましょうが、しかし、その自覚ならば、ご本人にも多少はあるのでございます。それなのに、そこから目をそらすために、素人騙しの「煙幕」ばかりはって、自分で自分を欺いておられる。 しかし、結局のところこれは、自分で自分を傷つけることにしかならず、決して「自分に自信をもつこと」には繋がりません。なぜなら、他人に指摘されるまでもなく、ご本人は自分の「偽物」性をいつでも感じているからなのでございます。 ――このように「知的であると装いたがる、非知的な人」というのは、自分が「非知的な人間」であることを、半ば以上、自覚しております。その自覚が苦しいからこそ、また嘘に嘘を重ねるようにして「知的」を装って、さらに傷つくのでございますね。 こうしたパターンは、加減乗除さまの場合もまったく同じで、ひとことで言えば加減乗除さまは「自分より明らかに優れた人間にケチをつけることで、自分の方がうわ手に立ったような気分になろうとしている(「2ちゃんねる」的に、単純幼稚な)人」なのだと申せましょう。 加減乗除さまは掲示板「問答有用」で、掲示板への「寄生者」らしく、掲示板のレベルそのものを否定する私に対し下らない批判をあびせ、私から、 とオチョクられると、「私は冷静だ。おまえの方が興奮している」などとやった、非常にわかりやすく「幼稚」な方だというのは、すでにホランドくんからも紹介済みでございます。 『「いや、私はこういう者だよ。この自分のブログで、固定ハンドルで、こうして責任ある発言を、継続的に行ってきた人間だ」とご説明下さるのであれば、私のこの「加減乗除」理解は、単なる誤解であったと撤回しましょう。どうですか、加減乗除さん? いぜん、私に「匿名」を批判された頭の悪い「ネウヨ」は、こう言われて、急遽「捨てホームページ」を立ち上げ、身元証明にしようなんてしてましたけど、貴方には「発言責任の担保=身元証明」となるような、継続的なホームページやブログなどがあるのでしょうか?』 『投稿規定を読めば、その行為が規定違反であることがはっきり書かれています。私の嘘でないことは証明できましたね。』(同上) 『あなたもここに寄生して一番上の気持ち悪い絵で園主様の傍らに鎮座なさっているのでしょ?』(子供っぽい憎まれ口) 『あなたが実名を晒そうが晒すまいが私には興味のないことです。「匿名は是か非か」とでも題して問答有用で議論してみてはいかがですか?あなたではとてもまともな議論が出来るとは思えませんが。』(一般論への摺り替えによる、身元の隠蔽・保身) まあ、「論」にはなっておりませんので、正確には「反論」ではなく、単なる「否定・拒絶」にすぎないのではございますが、ともあれ、私に『かなり興奮なさっているようで』と揶揄されて、それを否定し、逆に「あなたの方こそ」なんて芸のない「おうむ返し」をやった人間が、また少し批判されると、このように芸もなく興奮して、子供っぽい「おうむ返し」をくり返してしまっているのでございます。 そもそも、『社会常識』だとか『私たちはその庭先をお借りしているのですから掲示板のルールを守るのは当たり前です。』などと「殊勝なこと」を書く人間が、その口の根も乾かぬうちに、議論には何の関係もない「掲示板のトップイラスト」を『気持ち悪い絵』などと評したりするものでございましょうか? これは、議論の相手に対し「やぶれた服を着ている癖に」とか「貧乏人の癖に」など、憎まれ口と言うのと同じことで、子供じみた「自制心の欠如」を端的に示す、「無自覚発言」なのだと申せましょう。 つまり、端的に申しますと、加減乗除さまは「論理的」ということも「倫理的」ということも、ともに理解できない「幼稚な人」なのでございますね。 自分で『私たちはその庭先をお借りしているのですから掲示板のルールを守るのは当たり前です。』と言いながら、そのことの意味が理解できず、この掲示板の『庭先をお借りして』いながら、「議論における、当たり前の礼儀やルール」も弁えられない。――言いかえれば、加減乗除さまは、工藤さまと同様に「発言に一貫性のない」方なのでございます。 お二人は、政治や思想について論じたがり(議論したがり)、そのような場としての掲示板「問答有用」を重宝なさっているわけでございますが、結局のところ、こういう方たちがなさっているのは「自己満足のための、縁遠い話題に関する議論ごっこ」に過ぎないのでございます。 また、ですからこそ、私のように「メタ・レベル」に立って、彼らの議論の「現実逃避性」を指摘する者が出てくると、彼らはそのこと、つまり「彼ら自身の現実」に関しては、議論ができない(対象化できない)ために、ただただ反発して、排除しようとするのございますね。 端的に申しますと、掲示板「問答無用」で政治論議に花を咲かしている人たちの多くは、社会学者大澤真幸が言うところの「リアルに逃避している」人たちだ、ということなのでございます。 政治的・社会的現実は、いかにも「リアルな問題」であり、それを論じている「私たち」は、文学を論じている人たちよりも、より「リアルな生」を生きている――というのが、こういう人たちの「シンプルな発想」でございます。 しかしながら、「自分の生」に現実感(リアルな手応え)を感じられない人が、しばしば戦場や災害現場などでだけは「活き活きできる」というのは、彼らにとってのそうした「リアル」が、直視したくない「リアルな自分=空虚な自分」からの「一時的な逃避のための道具」だからなのに他なりません。――それが「リアルへの現実逃避」ということなのでございます。 このように、「現実逃避」というものの対象は、多くの場合、何よりもまず「自分自身」であり「存在感のない自分」からの逃避なのでございます。 「才能」も「力量」も「存在感」も無い。いてもいなくても誰も困らないよう「私」であると「自覚」されているからこそ、彼らはそんな「自己認識」から逃避しようと、何よりも重大な「リアルな問題」に関わろうといたします。 しかし、彼らの目的は、もともと「自己正当化」にしかございませんから、本格的に問題を考えようとはしませんし、だからこそ単なる「衒学趣味」や「言論人ぶりっこ」に終わりがちなのでございます。 無論「類は友を呼ぶ」で、こういう人たちは、工藤さまもおっしゃるとおり、見掛け上は「敵味方(左右)」にわかれて、意見交換や論争もいたしますが、根本的にはそういう相手の存在に依存してこそ、自身の存在証明の叶う方たちでございますから、そうした「共依存的な場」から「自立」することなど、金輪際ございません。――工藤さんや加減乗除さんは、自分でサイトやブログを立ち上げ、そこで「自分の意見」を公表したところで、そんなものには誰も見向きもしないだろうことを、ご自身よくご存じなのでございますね。だから、彼らは、他人(の提供する場所)に「寄生・依存」するしかないし、そうした「本質」だけは、誰にも指摘されたくない。そんなこと(触れてはならない真実)を指摘する不愉快なやつとは議論したくもないので、「排除するしかない」ということになるのでございます。 まず、淳さまについて申し上げますと、淳さまの特徴は、ご自分が「元創価学会員」であることを隠そうとはなさらないところにある、と申せましょう。 普通、「知的ぶりたい人」ならば、「現役」であろうと「元」であろうと、自分が「創価学会」の信者であったなどと公言したりはいたしません。これは、信仰者は「非理性的」だという単純な「信仰」理解が、一般に流布しているからでございます。――「偉そうな理屈を言っても、所詮は南無妙法蓮華経って唱えてたんだろう」と思われるのは、目に見えているからでございますね。 しかし、「信仰者であったこと=信仰に依存していたこと」が事実なのであれば、自身が成長するためには、そんな偽りなき現実から出発するより、仕方がございません。そのようなものであった自分を直視し・反省し、同じ過ちをくり返すまいとするところから、人は成長し、知的になることもできるのでございます。 また、「知的であることを誇りたい」のではなく「知的でありたい」と願う人間は、表面を繕うことなどいたしません。そういう「見え坊ぶり」は、自分の「知的な足枷」にしかならないことを、真に知的な人間は、知的に理解しているからでございます。 工藤さまや加減乗除さまの例でもわかりますとおり、「自身に、根本的な自信のもてない人」というのは、それゆえにこそ、他者に対し「知的であることを誇りたい」と思い、その結果「知的であることを偽装」することになります。 ところが、「根本的な自信のある人」は、たとえ自分を「つまらない人間だ」と思ったとしても、その「つまらない自分」を直視する「強さ」を持っており、そこから着実に成長していくのでございますね。 例えば、私が敬愛する「右翼」である鈴木邦男は、淳さまが創価学会員であった過去を隠さないのと同様に、自身が「成長の家」の信者であったことを隠しません。 これは、彼にとって「右翼」であることは「自分を飾り、偽装するため」ではなく「理想を求めた」結果あり、その意味で「なんら恥ずるところはない」というのと同様で、「理想」を求めて信仰に邁進した過去は、決して恥ずべきものではないという「自信」が、彼にはあるからでございましょう。 ともあれ、「自分自身の現実」を直視し、そこから成長していこうとする人は「(一般には)恥ずかしい(ものとされる)過去」でも、無闇に隠したりはいたしません。 反対に、「自分自身の現実」から逃避している人というのは、「恥ずかしい、今の自分の現実」を「他人に知られたくない」と考えますから、「匿名」は当然のこと、自分自身に関しては何も語らず、ただ「無内容な多弁」を弄することで自分自身に酔い、「2ちゃんねるの匿名鴉」たちがそうであるように、自分よりも優れた人間に対し、まと外れな難癖をつけることで、相対的に自分の方が優れているかのような「勘違い」に酔おうとするのでございます。 したがいまして、淳さまやkamuiさまと、工藤猛さまや加減乗除さまの違いは、前者が「自己批判的でありながら、根源的な自信(落ち着き)を感じさせる」のに対し、後者は「自己主張的であり他者攻撃的でありながらも、全体の印象としては自己防衛的な必至さを感じさせる」点にある、と申せましょう。 人が「教養」を積むのは、「現実を知るため=現実に関する知識を得るため」というよりも「幻想を知るため=私たちが、いかに世界を見たいようにしか見ていないかを知るため」なのだと申せましょう。 「教養」の無い者がしばしば「迷信」に囚われるのは、彼が「現実」を知らないからではなく、大概は「幻想」というものを知らないからなのでございます。 ですから、「自分の見たいようにしか世界を見ることできない=幻想に生きる」人間というのは、本質的な意味で「無教養」なのだと申せましょう。逆に言えば、「現実を直視する強さ」さえあれば、「教養」など必要ないのでございます。 ただ、完璧に「現実を直視し」「幻想を排除できる」人などおりませんから、人は日々「知的な精進」を重ねるべきなのでございます。 そして最後に、まとめとして平たく言ってしまえば、「他人の評価」を求めている間は、人はまだまだ知的に未熟なのでございます。 本物は、そんな凡庸なことなど求めず、ただ「曇りなき目で現実を直視し、それと向き合う生き方」、つまり「他人」や「世間」ではなく、「世界と直接対峙する生き方」を求める。――「知的である」とは、そういう態度をいうのでございましょう。 kamuiさんのHPでの論文を幾つか通読しましたが、残念ながら、自身の知へと還元出来るほど理解が及びませんでした。 確かに収入には反映されませんが、「生き抜く意思」という切実な課題には、いい意味で糧になればと思っています。 >「恥」の問題は、淳さんの中心的テーマであると共に、「右翼」における重要なファクターの一つでもあると思います。 そうですね。仕事柄、単純労働という性質であるため、色々と「国家」と「個人的恥意識」について考えていました。 下記でも述べましたように、僕自身、「ナショナルな意識」が希薄になっているという事実と共に、やはり「ナショナルな意識」を完全に払拭することなど出来ないという現実もあります。無論それを払拭する必要もないし、別段恥じる必要もない。 例えば、この国のマスメディアが殆ど報道しない人身売買の現実を、「国家の成員」として途轍もなく恥ずかしいと感じています。(日本は国際的に「人身売買監視対象国」とされている) このように、国家と自身が密接に連関し、「ナショナルな意識」として強く「恥」を覚えるのは在り得ますし、(例えば人身売買のように)帰属する国家内外で為される一部の日本国民の蛮行が、同時に「我が身の恥」として意識されることがある。 つまり、僕の「国家/国民意識」は、自身の「恥意識」と決して無関係ではありません。それ故僕は、日本国民や国家権力に関し、「恥」に重きを置いて「ナショナルな意識」を保持していることを否定しません。 アレクセイさんにくっついたあなたがそう思ったということで了解しますが、人の掲示板に投稿する時に規定を守るのは当たり前です。ネットの匿名性を理解できない気の毒なオツムには同情するしかありません。 > すでに削除された投稿で、園主さまが、貴方について、下のように書かれていたことは承知の上で、まだ身元を隠したまま、こんな「偽善的」なことを書かれたんでしょうね、きっと。 その投稿には返信すらしました。彼の投稿規定違反のおかげで削除されましたがね。で、この社会常識を指摘しただけの投稿のどこが「偽善」なのかまったくわからないのですが? >という、加減乗除さまの理屈は「中国国民であれば、中国国家の定めた法律や政策にしたがうのは、当然だ。したがって、チベットの暴徒は、犯罪者でしかなく、治安維持のための鎮圧はまったく正当な行為であり、それを非難する外国の行いは、すべからく内政干渉である」という理屈と、まったく同じですよね。 「馬鹿は底なし」という格言を知ってますか?なぜ私が「私人」「私的掲示板」といっているのか理解できていないのですね。気の毒なことです。 > 園主さまは「削除される理由のない投稿」を「削除」されたから、「それに抗議する投稿」をした。ところが、そうした「抗議の投稿」さえすべて削除されたために、やむなく短時間でのアピールを期した投稿、つまり『削除されることを前提とした投稿』をせざるをえなく「された」だけですよ。 ああ、あなたは本当に「底なし」ですね。投稿規定を読めば、その行為が規定違反であることがはっきり書かれています。私の嘘でないことは証明できましたね。あなたが底なしであることも。 > つまり、反省すべきなのは、ご都合主義的に「自分(熊谷伸一郎)に不都合な投稿」の削除を始めた、熊谷伸一郎さんとそのお仲間の方ですよ。 > 貴方も、形ばかりの「熊谷伸一郎否定」を行ってみせたものの、やっぱり節操のない「寄生者」根性の持ち主のようですね。熊谷伸一郎さんを擁護する人は、いつだって、都合よく出現する身元不明の「匿名」者です。 私がいつ「否定」や批判をしましたか?私は感想しか述べていません。あなたもここに寄生して一番上の気持ち悪い絵で園主様の傍らに鎮座なさっているのでしょ?あなたが実名を晒そうが晒すまいが私には興味のないことです。「匿名は是か非か」とでも題して問答有用で議論してみてはいかがですか?あなたではとてもまともな議論が出来るとは思えませんが。 |
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