というとは?/ プロミス
[ 101] ITmediaニュース:「はてな」という変な会社 (1/2)
[引用サイト] http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0507/04/news036.html
ネット企業なのに紙で進行管理。社内会議はMP3でWeb公開。オフィスがあるのに仕事は図書館。旅先の宿で新サービスを開発――「はてな」はとにかく、型破りな会社だ。 「合宿いけへん?」――はてなの近藤淳也社長がそう切り出すと、社員の大反対にあった。ブログサービス「はてなダイアリー」など、20万人以上のユーザーをかかえる、たった10人の会社。遊びに行っている暇はない。 それでも近藤社長は強行した。「きっと何かあるから」。開発者を連れて平日3日間、冬の海を見下ろす宿で過ごした。ひたすらコーディングする以外、やることがなかった。「3日間で5日分くらいの仕事ができた」 この合宿で生まれたのが、国内初のソーシャルブックマークサービス「はてなブックマーク」。合宿に行くまでの車の中で「何作ろう?」とアイデアを募り、宿でコーディングし、帰ってきた次の日にリリースした。たった4日の早業だった。 はてなブックマーク。ブックマークを簡単に登録でき、自動でカテゴリー分けする。同じ記事をブックマークした人を探すこともできる 合宿は、頭をクリアにして新サービスを考え、生産性を上げるための試みだった。はてなの社員はこの1年で倍増し、組織としての形が見えてきた一方、新サービスの開発が日に日に難しくなってきていた。「場所を変え、“3日間はこれだけ作って帰ろう”というシンプルさが必要だと思った」 ユーザーサポートや、既存サービスの細かな改善という連続的な仕事ならオフィスが向いている。しかし、既存のものを否定しゼロから創造する非連続的で破壊的な行為には、オフィスは不適だという。 その後の合宿でも「はてなRSS」「はてなアイデア」など、続々と新サービスができた。最初は反対していたスタッフも、徐々に合宿の効用を認めてくれるようになった。場所を変えることにハマり、普段も図書館で仕事するスタッフまで出てきた。 はてなのオフィスと近藤社長。記者が取材に訪れた日、オフィスの半分が空席だった。図書館で仕事しているためだ 「9月の合宿は、アメリカなんです」。とうとう海外遠征の許可が下りたと、近藤社長は嬉しそうに話す。大好きな旅が、仕事の一部になった。宿の手配から車の運転まで全部1人で引き受けるが「めちゃくちゃ楽しい」という。 「何が必要か、常に自分の頭で考えることが必要」――平日に社員の半数を引き連れて合宿するなどという、経営の教科書にはまず載らない発想は、近藤社長の頭から生まれる。成功例を真似しないから、失敗も多い。トライアンドエラーを繰り返す中に、きらりと光る成功がある。「あしか」もその1つだ。 「あしか」は、はてな開発陣の進行管理ツール。材料は段ボール箱と、コピー用紙の裏紙だ。箱は4つの区画に仕切ってあり、「終わった」「すぐやる」「そのうちやる」「ペンディング」と書かれている。開発タスクは紙に書き、どんどん箱に入れていく。アナログなことこの上ないが、これで十分だという。 スタッフのスケジュール管理も、ずっとアナログだった。壁掛けカレンダーに、全員の予定を手で書いていた。ある時、「社外からも予定を知りたい」という声が出たため、改善策を考えた。「ライブカメラでカレンダーを映したらいいんじゃないか、とか」 ここで、スケジュール管理システムを作ろうなどという“ネット企業っぽい”発想に行き着かないのが、はてならしいところだ。「スケジュールシステムを作れと言われると、サイボウズやYahoo!カレンダーを見て、みんなだいたい同じものを作る。でもそんなの、はてなでやる意味がない。サイボウズを使えばいいんだから」 とはいえ、カレンダーをライブカメラで映すのはさすがに本末転倒ということになり、グループウェア「はてなグループ」に、シンプルなカレンダー機能を実装した。日付をクリックすると、真っ白なコメント欄が表示されるだけ。個人のスケジュール帳と同期する機能もなければ、スケジュールの開始・終了時間の記入欄すらない。 「これまでカレンダー1枚で良かったんだから。ミーティングの終了時間なんか誰も書いていなかったし、相手のスケジュール帳を埋めるなんて、そんな面倒なことやってない」。システムを作るとなると、いろんな機能を入れたくなるのが人情。そこを一歩引いて考え、本当に必要な機能だけを入れていくのがはてな流だ。 「他の人がどうしているかとか、よくある製品がどうなっているのか見たら、その時点で思考停止。そうではなくて、自分が欲しいものを自分の頭で考える努力をしないと、いいサービスは作れない」 「本当は意味がないのに、みんなが不便しているものってあると思う。そういうのが嫌なんだろうな」――無意味なものを壊してやりたいという衝動が、近藤社長の中にあるという。 「意味もなく偉そうな人とか、親が偉いだけで威張っていたり金持ちな人が嫌いで。そういう人にゴロニャーンと順応して生きていくか、そういう人の意味のなさを暴いて生きていくかというと、後者の生き方を選ぶ」 小さいころからそうだった。中学校で生徒会長になった時。初めての会合で「制服をなくそう」と訴えた。「制服って意味あるんかな? 意味分かる人いたら答えてよと聞いたんです。でも誰も真に受けなくて、話がまったく進まなかった」 スタッフの多くがオリジナルの「はてなTシャツ」を着ている。はてな流のクールビズといったところだろうか。もちろん強制ではない はてなの運営にも、この姿勢を貫く。例えば、だらだら続く意味のない会議は、無駄だからしない。毎朝の短いミーティングで意見をシェアし、すぐ行動に移す。きれいなプレゼン資料を1枚作っている暇があったら、コーディングしていたほうがいい。 人の心を読むコンピュータ、単語のイメージの言い当てに成功訓練されたコンピュータは、人が特定の言葉を与えられたときに脳が起こす反応を画像化したものを言い当てることができた。(ロイター) 主婦も納得? リア不要の5.1chシステム ソニーの開発意図前方のテレビ台に6台のスピーカーを一括搭載し、5.1chサラウンドを実現するソニーの「シアタースタンドシステム」。この技術の開発に約20年前から取り組んできたという。 |
[ 102] 2008-05-24 - 【海難記】 Wrecked on the Sea
[引用サイト] http://d.hatena.ne.jp/solar/20080524
気がついてみたら、このところあちこちの本屋で、外山滋比古の『思考の整理学』とか、アドラーの『本を読む本』といった古くさい本が平積みにされている。なんかヘンな現象だなーと思っていたが、忙しいので、きっとテレビで有名な誰かが紹介したんだろう、という程度で、深く考えずにいた。 最近、仕事上の必要もあって「はたして読者は変化したのか」ということを考えざるを得なくなり、この件をあらためて気にし始めたところ、ようやく、ことの次第がわかった。『本を読む本』の新しい帯に、「勝間和代氏推薦!」という言葉が刷られていたからだ。まったく知らない人だったが、どうも有名な「経済評論家」*1らしく、この人が勧める本はものすごく売れるらしい。へぇ、この人が日本のオプラ・ウィンフリーなのか。*2 気になったので、東京駅近くの丸善で、この人の特集記事が組まれた『週刊ダイアモンド』のバックナンバーを手に入れて読んでみた(タイトルは『年収が20倍増えた仕事術「グーグル化」知的生産革命」)。この特集記事は、ダイヤモンド社による自社本*3の宣伝のための翼賛企画でしかないが、この人が現代版「知的生産術」のカリスマであること、彼女が著書で推薦する本はブログやソーシャルブックマークで評判がどんどん増殖し、テレビ出演などをきっかけにその評判がリアル書店にも還流し、結果として、そこそこのベストセラーになるという現象が起きていることはよくわかった。勝間氏自身が、そのような本の売り方を、自身で積極的に手がけているのだともいう。 著者が自分の著作をいろんな方法でプロモーションするのは当然だし(私だってやっている)、また、読者による書評やレビューが地味な既刊本の潜在需要を掘り起こし、良書が多くの人の眼にとまるようになるのも、基本的にいいことだと思う。でも、なんでまたいま外山滋比古で、アドラーなんだろう。こんな古くさくてつまらん本がアマゾンで上位に入るのは、どんな「潜在需要」を掘り当てたにしても、明らかに異常だと思う。 勝間氏が「知的生産術」として言っていることは、古典的な「速読・多読の奨め」に、「グーグルをフル活用しよう」といった程度の、きわめて凡庸かつ常識的なことでしかない(ただし、速読・多読の方法論として「フォトリーディング」という、いささかカルト的な匂いのするメソッドへの傾倒が見られるのが気になる)。ながらく日本で支配的だった「読書は精神修養なり」という考えとは正反対の、プラクティカルで功利的な読書法のエヴァンジェリストという点でも、少しも新しい現象ではない。 日本では近世の段階ですでに民衆の識字率が高かったこともあり、大衆的なモダニズム文化が華ひらいた1920〜30年代に、円本ブーム(文学全集のブロックバスター)や文庫・新書、百科事典といった近代出版システムが整備されていくと、一種の「大衆的教養主義」が広くいきわたった。こうした近代出版システムは、いわゆる「旧制高校文化」(これも一種の大衆エリーティズムだと私は思うが)などと手を携えて、戦後に至る日本の読書文化の基層をつくった、というのが私の理解である。 戦前モダニズムを起源とする「教養主義的な読書」は、日本では高度成長が達成された1970年代後半以後、いわばポストモダニズムを背景とする「快楽としての読書」に取って代わられる。私自身はこの時期の読書文化のもとで育ったので、モダンな教養主義に対してはいまなお強い反発がある。だが、いま本を読む人たちの世界で起きているのは、ポストモダン的な「快楽としての読書」という読書文化がほとんど崩壊し、次の時代のモードとしての「コミュニケーション消費としての読書」へと、雪崩を打っているという現象じゃないか。 これを単純に「教養主義的な読書」>「快楽としての読書」>「コミュニケーション消費としての読書」という時系列の流れにしてしまうと、日本人の読書力がどんどん劣化しているように見えるが、必ずしもそうではないと思う。むしろ、かつての「教養主義的な読書」のなかにも、当時のメディア環境のもとにおける「コミュニケーション消費」の要素が忍び込んでいたと考えるべきだろう。 外部からの同調圧力や権威を背景とする「読書A」と、読者自身のなかに動機付けのある「読書B」があるとしたら、長期的には「読書A(教養主義的読書)>読書B(快楽としての読書)>読書A’(コミュニケーション的読書)」というかたちで、両者が循環しているだけで、いま起きていることは、20世紀初頭とは比べものにならないほど高度化した情報環境における、新たなる(悪しき、とまでは言わないが)「教養主義」のリバイバルなんじゃないか。 勝間氏の推薦する本をブログやテレビで知って読んだ人の多くは、その本の内容を必ずしも深く理解しないだろう(なにしろ「フォトリーディング」でいいのだ)。だが、同じ本を同時に「フォトリーディング」している仲間が沢山いることを感じ、「コミュニケーション消費としての読書」の運動に参加することで、目的の大半は達せられているに違いない*5。でもおそらく、かつての「円本ブーム」のときに起きたことも、多かれ少なかれ、これと同じことだったのだと思う(当時は速読でさえない「積ん読」で、本は「使用」ではなく「礼拝」の対象だった。その思わぬ副産物として生まれたのが、本をご神体とする「教養主義的読書」という、一種の読書信仰だろう)。 このところ売れている「レバレッジ」とか「ライフハック」とか「マインドマップ」といった名の付く一連のビジネス書は、アメリカ由来の一種のカルト宗教としての「知的生産術」の現代版布教書だと私は思う*6 *7。ときならぬ外山滋比古ブームも、そうした文脈のなかで理解すればいい。でも、お手軽な「知的生産術」なんてものが本当にあるのか、ということに、私は大いに疑問がある。そもそも「知的生産性」などというものを、どうやって数値化するんだろう。*8 私は生産性向上のために読書をするくらいなら、なんの生産性もなくていいから、「消費的読書」をしたいと思う。読書をすることによって精神が高められるというのは、一種の信仰にすぎないだろう。でも、精神的読書を批判する「功利的読書」だって、別種の宗教である。いま、アマゾンのランキングや書店の平台は、「読書という宗教」のさまざまな原理主義者たちが、静かなバトルを繰り広げる場所になっているように見える。 *5:はてなブックマークのようなソーシャルブックマークが、ベストセラー本の誕生に寄与しているという話が上の『週刊ダイヤモンド』の記事にも出てくるが、そもそも最近の出版物そのものが、実世界でソーシャルブックマーク的な機能を果たしている。この件については関連エントリーも参照のこと。 *6:「知的生産術」という発想の源泉はデータベース信仰にあり、その点では梅棹忠夫の『知的生産の技術』が布教した「京大式カード」も、アドラーのいう「シントピコン」も、「グーグル」もかわらない。これらのデータベース信仰を、一種の宗教としてとらえる視点があってもいいように思う。 |
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