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similaritiesとは?/ プロミス

[ 556] タイを読む
[引用サイト]  http://www.geocities.co.jp/Outdoors/6825/books100.html

今世紀初頭までに確立された植民地ブロック経済は、フィリピン(米国領)、インドネシア(オランダ領)、マレー半島(イギリス領)が先進資本主義諸国に工業用資源を提供し、インドシナ半島(フランス領)、タイ(独立)、ビルマ(イギリス領)が上記植民地に米を提供するという構造を持っていた。ところが、1929年に始まる世界大恐慌は、フィリピン、インドネシア、マレー半島に打撃を与え、その余波はインドシナ半島、タイ、ビルマにも及んだのである。
本書において著者は、20世紀における東南アジア各国の政治経済のダイナミズムと国際関係論をポイントを押さえて解説する。独立国タイにおいても、その政治経済の推移が、周辺諸国の政情やアメリカ・ソ連の外交政策に大きな影響を受けてきた事が知れて興味深い。
本書は、イサーン住人の大部分を占めるラオ人の起源と変容を詳述し、もって現代のタイ社会におけるラオ人の姿を浮かび上がらせる意欲作である。
18世紀にラーンサーン王国が分裂し、タクシン王がラオ諸国へ攻撃をしかけた事は、ラオ人のメコン川右岸への移住を促した。19世紀末には、シャムとフランスの領土争いに端を発して国境線が確定し、イサーンのラオ人たちはシャム国民として組み入れられる事となった。
ラオ人は、親戚、友人、知人のネットワークをフルに活用して、より良い農地を求めて移動を繰り返し、イサーンの森林を開拓していった。現在バンコクには低賃金労働者として働く多くのラオ人が居住しているが、ここにもまた、知人のネットワークを頼ってダイナミックに移動を繰り返すというラオの行動パターンを見ることができるのである。
では、いったい、「ラオ人社会」とは何か? タイ・ラオス二国に跨り、17年に及ぶフィールド調査に基づいた詳細な民族誌から、地域に根ざす精霊祭祀と上座仏教の実戦が、国家編制や社会変化の過程の中でいかに生成・分化し、変容したかを明らかにする。東南アジア社会に通底する地域のダイナミズムに迫る意欲作。
辻政信は1902年(明治35年)に、石川県の貧しい炭焼きの家に生れた。15歳で名古屋陸軍幼年学校に入学し、その後の陸軍士官学校、陸軍大学校を通じて優秀な成績を修めた。実戦に出てからは、数々の困難な作戦を指揮して「作戦の神様」の異名を取った。
終戦をバンコクで迎えた彼は、7人の部下と共に僧侶に化けて地下に潜行したが、イギリス軍による戦犯追求が厳しくなったために一人バンコクを脱出した。その後ラオス、ハノイを経由して中国に至り、中共軍と一戦を交えていた国民軍の蒋介石の軍事顧問として働いた。1948年には北京大学教授の青木憲信と名乗って日本に帰国したが、1950年に戦犯解除の決定が出るまで各地を転々として潜行を続けた。
1950年に発表した手記「潜行三千里」は爆発的な人気を呼び、国税庁発表の「文壇人稼ぎ高ベストテン」に名を連ねた。1952年に衆議院に立候補して当選したのを皮切りとして連続四期の当選を重ねたが、数々の爆弾発言で自民党から除名された。1959年には参議院に立候補して当選した。1961年に国会に40日間の休暇願を出して東南アジアの「視察旅行」に出発したが、ラオスで僧侶に姿を変えて容共地区に潜入し、以後行方不明となっている。
辻政信は非常に興味深い人物であるが、その一生は多くの謎に包まれており、人物像の把握は困難である。本書はその謎を解明するものではないが、辻の行動を部分的にせよ記述する事によって一つの仮説を提唱している。また本書では、当時の日本軍の内情やタイ社会の様子が描かれており、歴史書としても興味深い。
列車がタイ領に入ると、いままでの客車から貨物列車に乗り換えさせられ、国境の町ハジヤイでは軍票をタイの通貨(バーツ)と交換され、また「タイ入国の心得」という刷り物を渡された。それにはタイに関する知識が日本語で解説されていたが、とくに注目されたのは、「タイ人を絶対になぐってはならぬ」という一項目であった。「タイ人は頭に聖霊が宿っていると信じているから、頭にさわったり、子供の頭を撫でることは禁物である」これは平気で人をなぐる日本人には頭の痛い注意であった。
それまで、日タイの関係は、開戦直後に締結された「日タイ同盟条約」に基づいて、日本軍のたい国内通過や駐留が行なわれていたのだが、日本軍はややもすると占領軍のようにふるまって、独立国であるタイ人のプライドを傷つけることが多かった。たとえば市中のクロン(運河)で白昼、素っ裸で水浴したり、列車で着いた兵隊がホームからいっせいに立ち小便したり、タイ人をなぐったり、僧侶に不敬をはたらくなどの行為である。
「日本政府がポツダム宣言を受諾したことは、まだ公式発表はありませんが、いまや確定事実とみるほかはないでしょう。無条件降伏となれば、皇軍に対する武装解除は必至であり、まことに断腸の思いであります。しかし、自分は日本がこのまま亡びるとは思いません。ふたたび祖国が立ち上がるときにそなえて、自分をバンコクの地下に潜入、待機させてください。お願いします」
辻参謀は固い決意を面にあらわして、市内の寺院に潜入する許可を求めた。辻の決意には花谷参謀長が賛成しているので、中村軍司令官もあえて反対はしなかった。
納骨堂で写経していた辻は激しい銃声を耳にして立ちあがった。庭に出て、堀の穴からようすをうかがうと、表通りは市街戦さながらの騒ぎである。荒々しい怒号と、群集の走る音と、パン、パン、鳴るピストルの音---そのうちに、拳銃で撃ち合っているのはタイの軍警と華僑の若者だとわかった...白昼の大通りは戦場と化し、朱に染まった死体がいくつもころがっている。タイの軍警は、機関銃や装甲車まで持ちだして、華僑の抵抗者を攻撃していた...終戦以来、華僑は全タイの同胞に檄を飛ばして青天白日旗を掲揚した。これに対し、タイ政府は、タイ国旗を併用することなしに青天白日旗を単独で揚げることを禁止した。しかし、いまや米英仏ソとともに戦勝国の席につらなる中国人の気位は高く、日本の同盟国だったタイ政府の命令に服すはずもない。各所で激しい争いがはじまり、流血の惨となったのである...タイ人と華僑の争いはいまにはじまったことではないという。タイ政府は、昔から華僑に国内経済の実権を握られていることをにがにがしく思っていた。このため、戦争中は特定地域を外国人居住禁止地域(日本人だけは除外された)に指定して華僑を追い出したり、タイ人の職業保護を理由に、華僑を理髪業や運転手など四十七種類の職業に就けないようにした。漢字の看板には税金をかけた。これが終戦によって華僑の不満を爆発させる原因になったのであった。
本書は1991年のクーデターを、チャチャイ内閣から第二次アナン内閣までの政情を踏まえて分析した本である。著者は国際情勢の専門家として外務省に勤務した経歴を持ち、アリストテレスの「政治学」や、インドシナ半島の歴史的事情、対日、対米関係にまで及ぶ幅広い視点からタイの政治の動向を探る。
と総領事に引きとめられて、在タイ日本公使館勤務の辞令を受け取り、タイに留まった。1946年に日本に引き揚げてからも外務省での勤務を続けたが、1951年に退官して東洋綿花株式会社に入社。翌1952年に駐在員としてタイに赴任し、戦後のタイの経済成長の波に乗って数々の事業を展開した。
本書は、12人の研究者がそれぞれの研究テーマからバンコクを分析した論文集である。詳細な資料に基づいた綿密な議論が展開されるが、入門書としての限界から「その議論は別の機会に譲りたい」、「それについては別稿を用意しなければならない」といった表現が目立ち、バンコクの奥深さを伺わせる。
本書はスコタイ時代からのタイ文学の流れを概観し、特に19世紀後半に印刷技術が普及してからの文学の変遷を、近代史の時代背景と織り交ぜながら概説したものである。
伝統的なタイ文学は韻文の形で継承されて来たが、19世紀末頃から西洋文学の翻訳が紹介されるようになり、それにつれて散文形式の小説が広まっていった。 20世紀におけるタイ社会の苦悩を背景として、優れた社会批判の作品が多く生み出されたが、歴代の軍事政権による検閲と弾圧は執拗に作家たちを悩ませ続けた。
本書は、イサーンの田舎医者ドクターカセーの物語である。家が貧しいために小学校には2年間しか行けなかったが、14歳の時に新聞配達先の校長先生に見こまれて学業を再開した。中学校を1番の成績で卒業した後、地元選出の国会議員の世話でバンコクの高校に入学し、チュラロンコン大学の医学部に進学。卒業後は、アメリカに留学したりバンコクで働く同級生を尻目に、故郷の村に帰って田舎医者になる道を選んだ。
昼の食事中に市長が話した事は、ここには医者がいないので、彼に自治体の保健所の医者として仕事をしてほしいということだった。彼は承諾した。いずれにせよ、保健所は十年以上も前に彼がムアンポンを離れた時とたいして変わらない状態にあった。医療機械も何もなく、患者用のベッドは古ぼけたのが二、三台あるだけ。医療用品の配給も何もかもすべてが不足していた。
「ドクター、決意は固いんでしょうか。初めの給料はたった八百五十バーツしか差し上げられないんですが」自治体の市長さんは食事しながら尋ねた。
「給料のことは問題にしてません。田舎の生活では八百五十バーツなら十分です。ここは一日の患者数がとても多いんでしょうね」
「そうですね、五十人から六十人というところですね。しかし、我々もすべての患者はケアできないんです。あなたもご存じのとおり、保健所は小さいし、予算もないですからね」
貧弱な設備と押寄せる患者の中で、彼は笑顔を絶やさずに働いた。また、新しい保健所を建てるための寄付金集め、看護婦の養成、訪問検診、家族計画の普及、母子健康センターの設立と、村の公衆衛生の改善に努めた。1973年には献身的な働きぶりに対してマグサイサイ賞を贈られた。
その後彼は行政面での手腕を買われ、保健副大臣、開発研究所所長、バンコク副都知事、国会外交委員長、大学庁大臣、外務大臣と出世していったそうである。

 

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