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水曜日とは?/ キャッシュワン

[ 316] くもりの水曜日
[引用サイト]  http://d.hatena.ne.jp/kisshee/

春だとおもうと聴く音楽はいっぱいあって、どうしてもギターポップをたくさん聴いてしまう血は争えないのだけれど、それ以外にも、聴く音楽はいっぱいある。冬は、ひとつの音楽をじっくりくりかえし聴くことが多いけれど、春は、本当に聴きたい音楽がいっぱい出てくる。
そのなかでも不思議なのが、なぜか春に、真心ブラザーズの「サマーヌード」を聴きたくなること。題名のとおり春のうたではないし、さわやかというわけでもないのに、どういうわけか、毎年聴いてしまう。
しかしなぜ聴いてしまうかは、実はちゃんとわかっているのです。このうたのどうしようもないせつなさが、たとえようもなく、ぼくには春を思わせる。この曲の胸をざわつかせるメロディと歌詞は、うわついた春のこころを、思わせるのです。
2008/03/31 15:17 こんにちは!ぜにょです。大変ご無沙汰しております。お元気ですか??あたしも『サマーヌード』大好きです!クラブでもかかると未だに盛り上がりますよね。あたし、ふたご曲の『サマームード』もスキです。シングルver.は、この盤に収録されているのと全然雰囲気が違って、フィッシュマンズっぽい感じでスキです。春というより真夏(しかもお盆あたりの日差しガンガンな感じ)のトラックですが…(笑)。桜もキレイなのですが、あたしはもう散ってしまった梅が楽しみです。ウチの畑に植わっている梅は大ぶりのぷりぷりした粒の梅がなるので、色々活用できるのです(漬物や、ジュースにしたり…)!季節の変わり目ですので、体調を崩さないように気をつけてくださいね!ではまた…!
2008/04/12 12:50 >ぜにょさんこんにちは。お返事遅くなってしまってすみません。「サマームード」、シングルバージョンは聴いたことがないですね。フィッシュマンズっぽいんですか。ぜひ聴いてみたいものです。最近全然クラブに行っていないのですが、ぜひクラブでも聴いてみたい曲です。桜は、京都でももうほとんど散ってしまいました。以前は梅のほうが圧倒的に好きだったのですが、最近は、どういうわけか桜もけっこう好きになってきました。でもやはり梅も好きです。うちも、実家では毎年梅の実をとって漬けていました。ぜにょさんも、体調にはくれぐれも気をつけてくださいね。>あきさんこんにちは。お返事遅くなってすみません。「サマーヌード」は、本当に胸がぎゅっとする歌ですね。そういうかんじが、きっとこの曲を春に聴きたくなる理由なのだろうと思います。
京都ではまだ梅も咲ききっていないところがあるというのに、気のはやい何本かのしだれ桜が、もう花をほころばせています。
ちょっとだけ春の嵐な、お昼休みです。空が暗くても、このウキウキする気温と風は、本当にいったいなんなんだろうと思う。
なぜだか、今年の冬は、キリンジブームでした。じゃっかん線の細い声、おしゃれなメロディ、ブルーアイド・ソウルをかんじさせるアレンジ、そして絶妙に配置された器楽、と、ぼくがはまらない要素がなかったのに(そして、ずっと聴いていたのに)、なぜかいままではまりきれずにいました。好きなミュージシャンと訊かれれば、名前をあげる存在ではありましたが、「大好き」ではなかった。やはり、じゃっかんもっちゃりしたビジュアルとデザインセンスがダメだったのかと思うのですが、いまとなっては、それも絶妙な毒として見えてしまうから、本当に好きになるというのは、おそろしいものです。
そんな(ぼくにとっては)絶妙のタイミングでリリースされた、今回のアルバム。収録12曲中、iTunesで去年配信されたものが7曲、2月の先行シングルが1曲、つまりはじめて聴く曲は、4曲。たったの4曲。ベスト盤じゃないのに。配信曲はややアレンジが変わっているものもありますが、基本的なデザインは、変わっていません。それでも、このアルバムを聴いて、損したと思わないのは、いまキリンジに恋しているからか、はたまた、このアルバムがすばらしいできだからか。しかし、仮にぼくが盲目状態になっているとしても、7曲の配信シングル、1曲の先行シングルをこのアルバムからリリースしたのですから、キリンジにとっても、自信作であることに間違いはないでしょう。
一曲目の「家路」は、配信シングルで聴いたときには、こんなにスケール感のある曲だと思わなかったのですが、いざアルバムで聴くと、かなりすばらしい。去年配信された7曲のなかで、このアルバムで聴いてもっとも印象の変わった曲が、これでした。ほかの曲は、アルバムに合わせてちょっとミックスを変えたな、とか、印象としてはその程度でしたが、この曲のイメージの変わりようは別格。
名曲「雨を見くびるな」を髣髴とさせる先行シングル「朝焼けは雨のきざし」は本当にすばらしい曲で、メロディももちろんすばらしいのですが、最近のキリンジらしい、ひねくれながらも前向きな歌詞が印象的です。
アルバムのみの曲では、「この部屋に住む人へ」がすてきな曲です。この曲と次の曲「囁きは天使のように」は、70年代シンガーソングライター的なアレンジがここちよい。このアルバムは、意外にもアルバムOmnibusに印象が近いかんじがあります。あのアルバムも、キリンジセルフ・プロデュースで、随所に、70年代SSW色がかんじられた好アルバムでした。アルバムの後半は、アコースティック・ギターが生かされたフォーキー・カントリータッチな作品が多く、緻密にアレンジされたキリンジの曲が好きな向きには、やや物足りないところもあるかもしれませんが、むしろ、こういうアレンジの作品もちゃんと発表できるようになったのが、すばらしいなと思います。
最後の「もしもの時は」は、キリンジらしいひねくれた歌詞です。この曲でしめくくるキリンジが、またすばらしい。ひょっとして、「君の胸に抱かれたい」につづく、ストーカーソング第二弾でしょうか? それとも、字面どおり胸キュンソングとして読めばいいのか? そんな二面性がまたすばらしい。
まとまりのない文章になってしまいましたが、前作DODECAGONからつづく、リズムはいまのもので、うわものは70年代的なものをやりたい、というコンセプトが、上手くはまったアルバムではないでしょうか。このアルバムでも打ち込みは多用されていますが、前作ほど打ち込み感は強くかんじません。前作が実験作とすれば、今作品は、より成熟した作品と言えるでしょう。もちろん、どちらがすぐれているというものではありません。どちらも、本当に魅力的です。
5月のライブが楽しみです。チケットはもう取ってあるので、あとは仕事の都合がつくことを祈るのみ。
まず述べておくと、ぼくは死刑廃止の立場です。それは、この本を読む前も読んだあとも、変わらない。ただ、いままで自分は、「死刑廃止」となんとなく思うだけで、そこで思考停止していたのではないか?と、まずこの本を読みはじめて恥じました。どちらかというとぼくはサヨク的な考えかたをしがちであるがゆえ、「死刑=国家による殺人、あるいは仇討ちの代行」と単純に考えて(この論理じたいが自分のなかでのあとづけなのですが、後述)、死刑はダメだ、と考えていたのです。いや、考えていたなんていう、たいそうなものではありません。なんとなく、そう思っていたのです。それこそ、島田雅彦のあの小説の登場人物のような、なんとなくなサヨク的空気。
まず、この本の内容うんぬん以前にぼくが驚いたのは、日本国民の八割が死刑存置派であるという事実。そうか、自分は少数派であったかと実感させられる機会は、いままでもすくなからずあったことながら、これにはびっくりしました。
たしかに、人を殺した人間は罰せられるべきです(ここでは、なぜ人を殺してはいけないかという問題は措いておきます)。でも、その殺人者を殺してどうなるのか? それは、殺人者がやったことと同じではないか? 殺人者を殺すことが、本当に罪を償うことになるのか?
ぼくは、けっこう子どものころから死刑はダメだと思っていたのですが(いまよりよほどものごとを考えていたかもしれない)、人を殺した人間をさらに殺してどうする? という疑問が、つねにあったような気がします。そして、幼いころからそう考えていたので、死刑は続けるべきと言うひとがこれほど多いことに、面喰ってしまったのです。
死刑の存続/廃止を考えるとき、有用性(つまり、論理)ではなく、情緒が大事であると、この本の後半で森さんは述べます。論理の上でなら、死刑を執行する論理は、完全に破綻している。殺人を減らす予防にもなっていない。それどころか、死刑をなくしたら殺人が減少したというデータすらある。殺人者を世に出さないためなら、終身刑を設ければよい(終身刑の問題は、それはそれとしてありますが)。冤罪がある以上、不可逆である死刑を執行すべきではない。etc、etc。でも、そんな論理を積み重ねても、死刑はなくならない。なぜなら、それは情緒の問題であるから。
この本に出てくるひとはみな、それぞれに「存置」「廃止」と言いながらも、こころのなかに葛藤を持っています。それほど、この問題はかっちりとは割り切れない。この本の最後に登場する、光市母子殺害事件の被害者遺族、本村洋さんですら、犯人には極刑を望みながらも、自分が死刑存置論者の旗頭にされてしまうのは望んでいないし、死刑じたいの是非についても苦悩しています。
存置、廃止、どちらが正しいなんて言うことは、不可能です。たぶん、どちらにも正しい言いぶんがあるし、ひとりひとりのなかでも、割り切ることなんてできない。
国家がどうとかそういう論理という皮をはぎとって、情緒の面で言えば、ぼくは、人は殺してはならない、死んではならないという思いが、非常に強くあります。これが、ぼくが死刑に反対する最大の基盤だと思います。だから、たとえ人の命を奪った人間であっても、その人間の命を奪うべきではない。しかし、自分の近しい人が殺されたとしたら、どうか? きっと、犯人を自分の手で殺したいと思うほど、憎いでしょう。でも、犯人と実際に接したとしたら、はたしてぼくは殺せるだろうか、あるいは、死刑を望むことができるだろうか? あるいは、自分の親しい人間が人を殺めてしまったとしたら、どうか? ぼくはそのひとに、死んで自分の罪を償え、と言えるのか? わかりません。いくら考えても、わかりません。
2008/03/17 06:56 死刑存続論が根強くあるのは(僕もその一人)きっと、そうであったほうが『楽』だからじゃないだろうかなんて思った。やはり故なく死を与えられた人のことを思うと死に対して死を持って臨むのはやむなしという考えであったり、極刑は犯罪の抑制作用(今回の日記によるとそんなことは数字上ないと言うことですが)となるであろうと言う単純明快な考えであったり。やはり僕は『楽』を考える人間であるので、感情論として同じことをされたら同じことを仕返したいし、抑制作用として長い説得や行動による諭しを持って人を変えるより、ぶん殴っちゃったりしたほうがいいやあ、などと考えてしまう人間だから、死刑存続論をとる人の意見は、共鳴してしまうところはある。でも本当はきっと『楽』なんかしないほうがいいんだろう。大変でも回り道したほうが、より人間の本質的な道に至るんだろうなと言うのも年をとるたび実感するこのごろです。難しいね。
2008/03/20 23:00 こんばんは。本当に難しい問題ですね。結局のところ、実際に当事者になったひとの発言の重みには、どんなことばもかなわないというかんじがします。被害者の遺族のかたで、犯人を殺したいと思うかたもいらっしゃるだろうし、死んでほしくないというかたもいらっしゃるだろうし。犯罪を犯したかたにしても、死んで詫びたいというかたもいらっしゃるだろうし、死ぬという前提だから改心できたというかたもいらっしゃるだろうし、死にたくないと思うかたもいらっしゃるだろうし…。本当に、ただひとつの筋立てでは語れないのが、この問題だと思います。だから、自分がこの問題について語るのはおこがましいとも思うのですが、やはり、出会ってしまったからには、きちんと考えて自分なりの「思い」を出しておきたい問題です。
2008/03/25 13:11 昨夜、帰国してみたら、またしても痛ましい事件が起こっていたのですね。遺族の方の本当の気持ちは当事者でないとわからず、対岸の火事でしかないのでしょうが、だからといっていろんなことを考えるのは無駄だと片付けてしまうのは乱暴だと思います。体験しなくても経験できる。なぜなら、想像力があるから。体験しなければわからない、というのは言い逃れにすぎない、とかつて教育実習の際、ちびっこたちに説いた日を思い出しました。殺人は死刑をもって償えるとも思わないし、犯人が死刑になったからといって、被害者の遺族の本当の慰めになるとも思えません。人は一人きりでは生きていけず、殺人者にも家族や友人や、何かの繋がりがある人がいて、それを死刑によって絶つということは、被害者のみでなく加害者の関係者たちにも多くを背負わせてしまうと思うのです。今月は花幻忌を迎えたので、いつもより多く、原民喜のことを考えています。私はヒューマニズム、死刑反対という問題で悩んで学んでいた親友が民喜の文学に出会って、あなたに似たものを書く人がいる、とアンソロジーに含まれていた彼の作品を読んだ日の衝撃は、年を経ても褪せません。先日、日米の元兵士たち、今ではおじいちゃんたちになっていますが、彼らの親善野球大会を迎えるまで、その後をテレビでちら見しました。一般の兵士たちはどちらも被害者だと思っているところが、興味深かったです。それで、迷いつつも、結局、参加しない人もいました。だから、武力解決はいけないのだ、としみじみ思いました。
2008/03/27 00:57 こんばんは。考えても、とうてい当事者のかたがたの思いにおよぶべくもないのですが、それでも、やはりどうしても考えなくてはならないことだと思います。人間の想像力というのは、人と人とのあいだにあるどうしようもないすきまを、なんとか渡れるようにできるものだと思います。これを軽んじると、悪しき経験主義や、極右にしろ極左にしろ、極端な考えに走ってしまう気がします。戦争まで話をひろげると、まだまだ語りきれないこと、どう語っていいのかわからないことがいっぱいあります。戦争にかぎらず、さまざまな対立関係において、すべて語り合うことで解決できるのかはわからないですが、すくなくとも、語り合える余地と場所をもうけるべきだというのが、いまのところのぼくの結論です。だから、死をもってすべてを終わらせてしまう(死刑囚の命も、被害者遺族の気持ちも)死刑は、ベストな手段ではないと考えます。
この本を読んで、あらためて思いました。"Pet Sounds"というアルバムは、ぼくにとって、これまでも、これからも、ずっと一生変わらずいちばん重要な音楽であると。そして、生きているかぎり、ブライアン・ウィルソンというひとの音楽を、生み出されてきたものも、これから生み出されるであろうものも、どうしようもなく聴きつづけてしまうだろうと、いや、聴きつづけないわけにはいかないだろうと。まず、この本を読んでしまっている時点で、このアルバムのことがいつも頭から離れない自分がいるのが、よくわかります。村上さんの『東京奇譚集』(新潮文庫)の挟み込みチラシに、この本の予告を見たとき、本当に興奮したし、待ち遠しかったです。
この本の筆者は、12歳から13歳のころに、"Pet Sounds"をはじめて聴いたそうです。ぼくが聴いたのも、ちょうど中学2年くらいのころでした。そのころ、正直に言って、このアルバムの歌詞の意味が正確にわかったかどうかは、わかりません。なにしろ、青春すらまだはじまったかはじまっていないかという年齢でしたから。でも、きっとある程度のことは、理解できたのだろうと思います。なにしろ、ここに書かれているのは、あるていど生きていたらだれでもかんじるような、カナシミと美しさだから。
このアルバムのコンセプトはよく、「イノセントの喪失のかなしさ」であると語られます。たしかに、アメリカという国のありようを考えたらそれも一理あるのかもしれないし(くわしく知りたいかたは、川本三郎『フィールド・オブ・イノセンス』(河出文庫)を読んでみてください)、音楽ビジネスのまっただなかに身をおいて、なおかつ当時結婚したばかりだったブライアンの心境を考えたら、そうであったのかもしれません。しかし、「幸福についての哀しい歌の集まり」、あるいは「哀しさについての幸福な歌の集まり」であるこのアルバムは、決して、「若者」だけに限定されるような作品ではないように思えます。
つまりは、このアルバムには、生きているうえでの「カナシミ」と「ヨロコビ」が凝縮されているのです。すぐれた音楽であれば、それは"Pet Sounds"でなくともなしとげられていることです。ただ、ぼくが出会った、もっとも心に残ったそういったアルバムが、この作品であったという、ただそれだけのことなのですが。しかし、そういうふうにこころに残ったアルバムは、強いです。この本の作者にとっても、きっと、そういうアルバムだったのでしょう。ぼくは、リアルタイムから30年ほど離れて、このアルバムを体験しました。しかし、本の終盤で作者も語っていますが、このアルバムは、リアルタイムで体験する必要がない(そこまで言い切ってはいませんが)。逆に言うと、今の音楽に、なんとリアルタイムで体験しなければならないものが多いことか。たしかに、それで魅力を発揮する音楽があることも、事実です。しかし、このアルバムは、いつ聴いても、人間の普遍的とも言うべき感情に訴えかけてくる。1966年だろうが、1996年だろうが、あるいは2016年だろうが、このアルバムの魅力は、変わらない。人間が存在しているかぎり。そう断言できるほどのすばらしさを、このアルバムはもっていると思います。
そう考えると村上春樹がこのアルバムを好きなのはわかるのですが(このアルバムがかかえる業と、村上さんの小説の業は、どこか似ている)、いままで"Fun Fun Fun"がビーチ・ボーイズでいちばん好き、と言いつづけていた村上さんが、この本を訳したのが、ちょっと不思議な感じがします。村上春樹とビーチ・ボーイズは結びつくけれど、村上春樹と"Pet Sounds"は結びつかない感じがしていたので。村上さんがどこかで、「みんなこのアルバムを過大評価しすぎ」みたいなことを言っていたような記憶もあります。勘違いかもしれませんが。
2008/03/16 23:08 はじめまして。としひこさんのブログで、お名前は拝見しております。今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。このアルバムは、もちろんブライアンのイノセントの喪失や成長への不安などがあらわれた作品です。通奏低音として、そういったものがあります。しかし、このアルバムのおもしろいところは、けっしてそれだけではない、人間の喜びや幸せや優しさも歌いこまれていることです。「カナシミ」を基調としながらも、それだけでは終わっていないというところが、何百回と聴けるひとつの理由かもしれないと思います。このアルバムにコンセプトというものがもしあるとすれば、それは、「イノセントの喪失」ではなく、「生きていくために味わうことが必要不可欠なさまざまな感情」なのではないかと、最近は考えています。今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。
まさか、ブリグリが復活することになるなんて、一年前までは思ってもいなかったのである。いつかは復活するだろう、いや、してほしいとは思っていた。でも、もうすこしトミーは、ソロ活動をつづけるつもりなんだろうと、勝手に思っていた。
トミーの活動をそれほど熱心に追いかけていなかった(最初のほうのシングルがCCCDだったから、買う気がなくなってしまった)ぼくが、トミー・フェブラリーやそれに付随するプロジェクトの曲を、ブリグリの残りのふたりのメンバーが作っていたと知ったのは、彼らがそれを公表してからしばらく経ってからだった。
高校のときに聴いたファースト・アルバムの衝撃は、いまでも生々しい。そのころにガツンときた音楽の衝撃は、たいがいあとまで生々しく残ってしまうようだ。
いやなやつが高校にいた。背は低いが、髪を妙に伸ばしているやつだった。彼とは、生徒会(厳密には違うが、わかりやすくこう言っておく)で一緒だったのだが、生徒会で使っている部屋で偶然ふたりになったときに、ブリグリのファースト・アルバムの話をしはじめた。おたがい、洋楽が好きなことは知っていたから、音楽の話だけはできた。たぶん、そのアルバムが出た翌日か翌々日くらい、本当に出てまもない日だったはずだ。
彼はCDウォークマンまで持っていて(当時はディスクマンという名前だったか?)、それでブリグリのファーストを聴かせてくれた。一曲目から、それもイントロから、衝撃的だった。かっこよくて、しなやかだった。
その日の放課後、ぼくはブリグリのアルバムを、銀座の山野楽器に買いに行った。当時渋谷がこわく、なおかつ通り道でもなかったので、六本木のWAVEと銀座の山野楽器に毎日のように寄り道をし、「勉強」していた。六本木WAVEが突然閉店したときには、本当に悲しかった。のちに、あの六本木ヒルズを作るために店を閉めたのだと知り、六本木ヒルズに対してかなり悪感情を持ってしまった(いまはなんとも思っていないけれど)。
ブリグリの初回限定盤は、当時珍しかったデジパックで、いまから考えると、マキシシングルといいデジパックといい、彼らが意図的に、「あちら」のかたちを持ち込もうとしていたことがわかる。
ブリグリは当時、オアシスと比べられたりしていたけれど、たしかにある意味、この二つのバンドは似ている。80年代後半から90年代初頭のブリティッシュ・ロックのいいとこどり、というところで。ブリグリのファーストに入っている「Magic Place」は、露骨にマンチェスター・ブームを髣髴とさせる曲である。ブリグリはキーボードづかいも冴えていて、そこらへんも、イギリスのバンドを思い起こさせた。
なぜこんなにダサいジャケットなのかという問題は置いておくとして、すばらしいライブアルバムです。
とりあえず、佐藤さんのベースがえらくかっこいい。佐藤さんのベースを聴いてこんなに感動したのは、実ははじめてかもしれない。ミックスがいいんでしょうか。ライブで実際に聴いても、こんなにすごかったことはなかったような。
1枚目は、横浜でのオーケストラとの共演によるライブです。昔の曲にもオーケストレーションがほどこされているのですが、なんでこんなアレンジにしちゃったの、みたいな曲がない。それを、もともとくるりの曲はクラシック的な要素をもっているからだ、と言ってかたづけてしまうのは簡単ですが、それよりも、やはりいまのくるり(というか岸田繁)の気分が、こういう方向に向かっているからなのでしょうね。いまの彼なら、「青い空」にもオーケストラをほどこせそうな気がします。
京都磔磔でのライブ(2枚目)は、一転して4ピースでのライブです。少ない編成でのライブが映えるような曲が選ばれていますが、1枚目との違いは、思いのほか、かんじません。というわけで、ぼくがいま、とても残念に思っているのは、オーケストラなしで『ワルツを踊れ』の曲を演奏したライブを、観られなかったということです。あのアルバムの曲を、オーケストラなしで、どう演奏したのだろうか。
それにしても、2枚目の選曲はすごい。なんというか、くるりのライブ盤として、完璧にきわめて近いんじゃなかろうか。
横顔のポートレイトにこころ惹かれることが、多いです。横顔ポートレイトというのは、たいがいつんとすましていることが多くて、でも、なぜか親密さをかんじることが多々あります。思えば、自分の横にいるひとって、正面からの顔を見ることが存外すくない。けっこう横顔を見ていることって、多い気がするのです。横顔のポートレイトに親密さをかんじるのは、自分の横にいるひとのように見えるからかもしれません。いつかそのあたりを、「横顔の少女」イラストレーター中村佑介氏に聞いてみたい。
題名のとおり、エリック・ドルフィーにとって遺作になってしまったアルバムですが、ジャズという音楽の魅力が、ここには凝縮されているような気がします。ときに熱く、ときに美しく、ときにおしゃれに、ときに激しく、ときに崇高に、ときにユーモラスに、そして、ときにあたたかく、ときにぞっとするほど冷たく。ジャズの理論のことはよくわからないけれど、ここで奏でられているのは、オーソドックスな50年代的「ジャズ」ではないはずです。でも、まちがいなく、ジャズのエッセンスが全部つまっています。
そして、ジャズでこれほどまでに感情を豊かに表現できるひとを、ぼくはこのひとをおいてほかに知りません。感情が生のままあらわれているようでありながら、聴きやすく、そしてジェントルです。これはおそらく、だれからもその人柄を愛されたというエリック・ドルフィーというひとが、そのままあらわれているからでしょう。エリック・ドルフィーより少しあとに活躍し、同じように夭折したアルバート・アイラーの作品でも、感情が生のままかんじられると思えます。ただ、アイラーの作品はあまりにも激しく、そして痛々しい。なんというか、アルバート・アイラーの作品は、ぼくにとってはもはやジャズではなく「ロック」に近い。ジャズを聴きたいと思ったときには、アルバート・アイラーの作品は聴きたいとは思えない。でも、エリック・ドルフィーの作品は、これこそ「ジャズ」だと思わせてくれます。それが、彼にとって幸福かどうかはわかりませんが。
みなさまのセレクトが出そろってからだいたい一週間ぐらい経ちましたので、ぼちぼち曲目をば発表したいと思います。
今回のテーマ「身も心もあたたまる音楽」で、すぐに思い浮かべたのが、フォークトロニカというのか、ちょっとやさしいかんじのするエレクトロニカと、軽めのジャズでした。軽めのジャズは、あまり手持ちの音源がなかったため、ほとんど入れられませんでしたが、エレクトロニカは、厳選をかさねて、二曲を冒頭に入れました。
オルタナ・カントリー界を代表するバンドのひとつ、ジェイホークスのアルバムから選曲。このアルバム、ジャケットもかわいくてナイスです。やはりギターポップ的な曲も入れたくて、この曲を選びました。オルタナ・カントリーは、Wilco以外のバンドはなかなか日本で紹介されませんが、このバンドいいです。
オーガニックなソウル・サウンドも、なかなかあたたまる音楽のひとつです。これがJBなんかになると、あたたまるというよりも「暑くなる」ってかんじですけれども。
歌詞はちょっとビターですが、なんともあたたまる絶妙な温度感の演奏に軍配、そして脱帽。最近はちょっと音楽性が変わってきてしまいましたが、このころのフレックス・ライフはすばらしかった。
なんともここちよいスカサウンドで、「80日間世界一周」のメインテーマを奏でてくれます。ぜひ、このままの飄々としたペースで活動してください。ちなみに、このバンドは、メロディのよさも特筆もの。この曲に勝るともおとらない美しい曲を作っているので、ぜひ一聴してみることをおすすめします。
ジャズ、というよりもフュージョンな一曲。こういう軽いめのジャズは、ぼくにとってまさにあたたまる音楽です。
この人の音楽は(っつっても、このアルバムしか聴いたことはないが)、ねちっこくない、いいかんじのラテンフレーバーがなんともしゃれていて、フュージョン的な音のなかでは、聴きあきません。
元Cymbalsのボーカリスト、土岐麻子さんのメジャーデビュー第一作のオープニング曲。シンバルズは、ぼくの大学生時代いちばん大事だったバンドといっても過言ではありません。月日が経つごとに、存在が薄れるばかりか、こころのなかに確固とした位置を占めてゆくのですが、土岐さんがジャズを歌いだしたときには、驚きました。だって、お世辞にも歌が上手いとは言えないので。でも、もうすっかり、土岐麻子しか歌えない音楽、というものを確立したみたいですね。これからも、すてきなシティ・ポップをつむいでいってください。
グラサンかけた子どもがウクレレ持ってるジャケットがラブリーすぎる、オレゴンのマイナーSSWのアルバムより。こんなものまでCDになる世の中というのは、本当におそろしくてすてきです。それとともに、アメリカという国の底知れない深さをかんじます。こんなすばらしい曲を書くひとが、そこらへんにさりげなくいるっていうのは、信じられない。軽めのAORサウンドがここちよいですが、なによりすばらしいのは、そのソングライティング。
こちらも大阪のスカバンド、マイスティース。ホーン隊が抜けて、一時期の勢いはなくなりましたが、それでも若いスカバンドのなかでは、随一です。このバンドは、ときおり毛布に包まったような、あたたかくてやさしい曲をつむぎますが、この曲もそのひとつ。このバンドは、アルバムの完成度も高くて、アルバム単位でぜひ買うべきバンド。
昨年待望の再発なった、ジャマイカの生ける伝説、リコ・ロドリゲスの90年代の逸品。トロンボーン奏者でこんなにはまったひとは、いまのところこのひとをおいてほかにはいません。自身で歌う「この素晴らしき世界」は、一聴するところ飄々としていながらも、重ねてきた年月がかんじられるすばらしい作品です。
3月のニューアルバムも楽しみなキリンジの、兄のソロ作品より。このアルバムからは一曲もシングルは切られませんでしたが、もし切るなら絶対これだろう、というくらいに傑出した曲。PVもつくられていましたね。このひとにしてはすなおな歌詞を書いている感じがします。ちなみに、コーラスはクラムボンの原田郁子。すてきなシティ・ポップです。キリンジには、ゆっくりでいいから、ずっとすばらしいシティ・ポップをつむいていってほしい。
以前よりますます雑多になった聴きかたにより、なんともいろんなジャンルにまたがったコンピになってしまいましたが、案外まとまりはできたのではないかな、とひそかに思っています。さて、どうでしょうか。
光栄にも、すでに何人か、このコンピをほしいと言っていただいたかたもいらっしゃいますが(ありがとうございます)、もしほしいかたがいらっしゃいましたら、メールかコメントをいただければ幸いです。
あたたまる作品、とつらつら考えてみると、どうも、きびしさ、暗さもふくみながらのやさしさ、あたたかさに、惹かれるようです。マイナスの雰囲気によって、よりいっそうあたたかさが強調されるからかもしれないし、暗い雰囲気の曲は外の寒い空気で、やさしい雰囲気の曲はいまここのあたたかい空気だ、と無意識に思ってしまうからかもしれません。
思えば、ボサノヴァの魅力というのは、けっこうそこに還元できるような気がします。9割のやさしさと、1割のしょっぱさ。バファリンの半分は、優しさでできています。じゃあ残りの半分は?っていう話です。残りの半分に、実は、からだを楽にする成分が入っている。音楽も一緒で、やさしさだけでは、きっとひとは楽にできない。苦み、しょっぱさがあってこそ、本当にあたたまる音楽ができるのではないでしょうか。
ギターポップをずっと聴いているとたまにつかれるのは、ほとんどの含有物が「やさしさ」だからじゃなかろうか、と、最近なんとなく思っています。
2008/01/25 22:37 こんばんは。エリスの娘さんのアルバムは、まだ聴いていないのですが、よいという評判ですね。ただ甘いだけの音楽って、あたたまらないと思うんです、個人的には。言うなれば、ぼくはやらないですが、メロンに生ハムのっけるのとか、トマトに塩かけるのとか、あたたかい音楽における「しょっぱさ」は、そんなものに近い気がします。

 

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