キャッシュワンのサイトです。
写真 関連 過去 ドンドン 産声 送信 直前 キャッシュカード 教える 全員 相互 グレー 幾分 限定 エンジン 週間 ステップ お金 年齢 ソフト ならでは さまざま プラザビル 役に立っ 商号 不要 キャッシュ 安全 洩れ 生まれ

年月日とは?/ キャッシュワン

[ 391] 闇黒日記
[引用サイト]  http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/omake/diary.html

「なぜうそをついたり、ものを盗んだりしてはいけないのか。」と尋ねると、「他人に迷惑をかけるからいけない。」と答える人が多い。この考えは、他人に迷惑をかけさえしなければ、かまわない、ということになる。果たしてこれでよいのであろうか。
いうまでもなく、他人に理由もなく迷惑をかけてはならない。だが、迷惑をかけるから悪いとか、迷惑にならないからしてもよい、などとはいえない。世の中には、他人に全然迷惑をかけないことでも、良心がそれを禁じ、したがって、もし、やれば罪になるというようなことがたくさんある。前に述べた心の中で犯す罪は、だれにも知られないし、だれにも迷惑をかけない。しかし、人に迷惑をかけなくても、良心がそのことを禁じている以上、それは、やってはならないことなのである。この場合、「迷惑になる」とか「迷惑にならない」とかいうようなことは問題にならない。
……、罪というものは、他人に迷惑になるとか、ならないとかいうことに関係なく、「良心の命令に従っているかどうか」ということによって決る、……。
……。ここでは、良心が理性や自由意志と、どんな関係をもっているか、また、どんな働きをするかを、詳しく調べてみよう。
人間は何かをする前に、まず理性で考える。たとえば、自分のものでないお金が目についたとき理性は次のようにいう。
「おまえはいま、二つのことができる。一つはそのお金を取ること。もう一つはそれを取らないことだ。ところで、物を取るということは悪いことだよ。」と。
そして、最後に意志が自由な立場から、「そのお金を盗め」「盗むな」の二つのうち一つを選び決定する。意志が盗むことを決定したなら、それは悪であり、罪となる。また、反対に、盗まないことに決定すれば、それは善である。良心は、理性が善であり義務であると判断したとき、常に例外なくそれを命じ、悪と判断されたとき、それを禁じる。
理性がときに善悪の判断を誤ることがあったとしても、良心は理性の示した判断に従って、理性が、善いとしたことを命じ、悪としたことを禁ずるものである。たとえ、どのようなときにも、私たちは良心の決定に従わなければならない。なぜなら、意志が良心に反する行いをしようと決めることは罪になるからである。
以上はキリスト教の考へ方。中學一年生の時に教科書で習つた事だから間違ひはない。日本人の考へる罪の概念とは全然違ふ。と言ふより、日本人は普通、ここまで考へない。
もつとも、日本人にはもともと「良心の聲」のやうな概念はなかつたから、そもそも良心の聲を聞かなかつたとも考へられる。
一。現在では信仰という言葉は、そのことはそうであると教会が教えているために、またそれが明確に理解できないため、それがそうであると単に考えるということを意味している。なぜなら私たちは信じて、疑わないようにと言われており、私たちには解らないと言うなら、それこそ正しく信じなくてはならない理由であると言われるからである。それで現今の信仰は知らないものを信じる信仰であって、盲目の信仰と言ってもよいものであり、それは誰かが言ったことが、他の誰かの中にも宿っているものであって、人のうわさを信じる信仰なのである。こうしたものは霊的な信仰ではないことは間もなく認められるであろう。
二。真の信仰は、そのことが真のものであるためにそうであると承認すること以外の何ものでもない。なぜなら真の信仰にいる者は、考えて『これは真である、だから私はそれを信じる』と言うからである。こうした人物は事柄の真理性を認めないなら、彼は『私にはそれが真であるか、どうかは解らない。それでまだわたしはそれを信じはしない。自分が知的に把握しないものを、自分はどうして信じることができよう。多分それは誤りであろう』と言うのである。
斯うしたキリスト教との發想は、我々日本人の發想と根本的に異る。「いや、同じだ」と何度も言はれたけれども、やつぱり全然違ふ。
「或表記が正しい事と、その正しい表記を使ふ事とは、何の關係もない」と西部邁やその他の我々日本人は普通に思ふ。スエーデンボルグの發想と比較すれば、彼我の物の考へ方に違ひがある事が判る。
古典主義時代において、記号(シーニュ)を用いることは、もはやそれ以前の世紀におけるように、永遠に語られ語りなおされる言説(ディスクール)の原初的テクストを記号(シーニュ)のしたに再発見しようとこころみることではなく、自然をみずからの空間で展開させることを可能にする恣意的言語(ランガージュ)、自然の分析における最終的な項、そして自然の合成法則を、発見しようとつとめることである。知はもはや、古い<言葉(パロール)>を、それがかくされているかもしれぬ未知の場所から掘りおこすのではない。知はいまやひとつの言語(ラング)を創りださねばならないのであって、その言語(ラング)はよくできたもの---すなわち、分析と組みあわせとをおこなう、まことの計算言語(ラング)であることが必要なのだ。
ハブサイト。ぐぐつて十ページめまでに、蛇のハブに關係したサイトはこれだけみたい。ウェブ上でハブは絶滅寸前。
ソフマップで中古のHDDを買つて來たのだけれども、使つたマウンタが餘りに非道い出來なのでぶち切れさうになつた。捻子で留めるのだけれども、ドライヴァが何うやつても捻子に對して斜めになる。斯う云ふろくでもない設計を見ると開發者の知性を疑ひたくなる――が、實は知性は何うでも良いのであつて、多くの場合、開發者が「自分で使つて見る」か何うかが問題だつたりする。理窟でだけ考へてゐると得てして使ひ辛い物を作つてしまひ勝ち。
ちなみにマウンタはソフマップで買つたのではなく、前から持つてゐた奴。ソフマップは惡くないので一言。
サマータイム導入されたらアニメの録畫豫約全部やり直しになるから反對。ローゼン麻生はサマータイムに反對せよ。漫畫は讀んでもアニメは見ないか知らんが。
「面白いのか何うか」くらゐの話だと誰でも判るが、專門家の人は矢鱈とややこしい話にして呉れるから困ると云ふ例。SQL文はDBに飛ばす前にローカルでテストしてください。とか、比喩で語れるくらゐなんだから、意地惡しないで普通に應答してゐれば良いのに。
と言ふか、專門家の人つて、何時も「傍觀者」「第三者」「客觀的」「公正」の領域から物を言ふよね。それが俺には意地惡にしか見えないんだが、何うだらう――「何うだらう」つて聞き方、それが專門家の人には嫌で嫌で仕方がないのかも知れないけど。こんなんで俺も憎まれてゐるのかねえ。しかし、客觀的な立場を取ると言ふのなら、憎むだの何だのと言はなければいいのに。と、平野さん以外の誰かさんに言つてみる。
福田恆存さんが指摘してゐたけれども、本當の公正と云ふのは、自分の立場を明かにしない事ではなく、それとは全然逆、自分の立場を明かにする事なんだと。
漫畫家が同人誌とか同好會とかの痛い話をネタにするのつて、昔、小説家が失敗した藝術家をネタにしたのと同じなんだよね。私小説の域を出ないやうな氣がするんだけれども。
ペルソナBS11録畫中に突然BSが映らなくなつて分配器の所爲かと思つて交換したら映つたので安心してゐたらまた映らなくなつた。何なのだらう。
BSが映らなくなる原因が判明。一臺の機械からBSアンテナの電源が供給されてゐるのだが、それが供給されなくなるとアンテナが眠り込んでしまふ。さうなると、他の機械では受信出來なくなる。この所爲だ。
TVとかからBSアンテナにはアンテナ線經由で電源を供給する――BSアンテナのこの仕樣、缺陷だろ。何處の馬鹿が考へたんだ。複數の機械で受信する、と云ふ事を考へないで仕樣決めてゐる。一對一でTVとアンテナが繋がつてゐれば、アンテナの電源はTVから供給してゐれば問題ないが、最う一臺、例へばBSチューナ内藏のヴィデオデッキを繋ぐと、TVから電源を供給してゐたのでは、TVが寢てゐる間のヴィデオデッキでの録畫が出來なくなる。人とTVが共々寢てゐる間に録畫させる爲、ヴィデオデッキなんてものは「ある」のだから、それが録畫出來ないのでは意味がない。だからTVの電源オフ時にもTVからアンテナに電力を供給するやうにする設定が「ある」訣だけれども、これがなぜかあつちとこつちとで適切に設定しないとをかしくなるとか、アンテナ線の分配時に電通を考へなければならないとか、下手なLANを組むよりややこしい。おまけに、何か妙な相性が合つて、あつちの機器で電源を入れていないとこつちの機器で何う設定しようがなぜか映らないとか、訣のわからない事態が發生する事がある。と言ふかうちでは昔それがあつた。最近は安定してゐたので忘れてゐたのだけれども、何うも家人が「電氣代がもつたいない」とか言つて小まめにコンセントを拔くやうになつた所爲で再び問題が現れたらしい。
なんでBSアンテナ、こんな使ひ辛い仕樣にしたのだか、訣が解らない。技術者の人は「これはいい!」と當時は思つたんだらうが、素人の發想を小馬鹿にするやうな連中が、技術的な理由を最優先にして仕樣を決めると、素人は迷惑するだけだ。
BS11のペルソナ2囘分をロストしたから大損害で、取敢ずtvkなんかで内容は補完できるけれども、「BS11の放送」に關しては永遠に手に入らない。無駄に分配器買つて無駄に時間費やした事を考へれば、省エネなんかしない方が省エネだつたとすら言へる。少くとも「録畫をする人間にとつて省エネは敵だ」と言ふ事は出來よう。動いてゐるものは弄らない――これはPCでもTVでも言へる。そして、省エネを考へると、PCでもTVでも安定動作は見込めなくなる。
最終的解決はあまりにもあっけなかったので、この話は途中まで書きながらも仕上げるかどうか迷ったのだが、BSアンテナ関係など調べた情報は一般的に役に立つこともあるので、何とか書き上げた。
「動かない」「動きました」の結果報告しかしない人が矢鱈と多いウェブで、大變珍しい、「どうやつたら動いたか」の報告までして呉れてゐる人の記事。東芝の機器に問題があつて、それが原因だつた、と、はつきり書かれてゐる。原因が書かれてゐる事は大變重要で、これがあれば情報を探してゐる人が、問題を解決する事が出來る。
さて。複數の機器でBSを視聽・録畫する事は、常識であり、當り前の事だ。ところが、全ての機器で視聽・録畫をちやんと出來る爲には、全ての機器が完全に動作しなければならない――今のBSアンテナの仕樣では、さうなつてゐる。ところが、完全に動くべき機器が問題を抱へてゐた。この事例では、東芝の機械が變だつた。「東芝が惡い」と云ふ結論だが――しかし、今の時代、デジタル機器はどれもこれもバグだらけだから、をかしな機械がシステムに紛れ込む事は普通にある。さうなると、をかしな機器が繋がつてゐても他の機器は普通に動くべきであつて、一つがをかしければシステム全體がをかしくなる今のBSアンテナの仕樣がそもそもをかしい、と言ひ切つて良いのでないか、と俺は思ふ訣だ。
BS周邊は、下手なPCより訣がわからないし難しいよ。デジタル放送は最うPCなんかよりいろいろな意味でよつぽど難しい事になつてゐる。コピー制限とかも問題だが、雨が降ると觀られなくなるとか云ふ馬鹿な問題もあるし、そもそもアンテナの繋ぎ方自體に問題がある。デジタルのBSは何處も此處もろくな番組をやつてゐないし。BSつて要るのかね。
と言ふか、八木の分配器、1端子電流通過型のを買つて來てゐた。全端子電通型でなければダメだ。買ひ直し。また無駄な買物した。何でこんなに訣わかんないんだよ。放送なんて簡單だからメリットがあつたのに、今となつては最う價値ないよ。
最近のTVでは省エネの爲に電源オン時にしかアンテナへの電源供給しないやうになつてゐるんだと。何だよこの餘計な御世話。
しかも、今の時代、技術的な改良をするには著作權的に制約をきつくしなければならないし。どんどん不便になるやうに世の中動いてゐる。
今の時代、分配器は全端子電流通過型にしないと駄目なのかよ。全部買ひ換へだ。幾つ分配器買はなければならないんだよ。
こんな事、何處でも説明なんてないし、わからない人多いだらう。なんで世の中こんな事になつてしまつたんだらうな。
とにかく。BSアンテナには一つの通り道で電源を供給すればよくて、そのための分配器は全線電源供給型である必要は全く無いです。また将来性を考えて汎用的に電源が供給できるように配線しても無駄です。テレビなんて一度設置したらそんなに動かすものじゃないですし、電源の供給先を変えたら分配器の差込を変えればいいだけの話で…。こんな簡単なことに気づかず私は損しました…。
しかし本當に今のTV受信は面倒だ。なんでこんな非道い状況になつてしまつたのだらう。技術主導で突進んだのが惡かつたんだらうな。素人が關はる事を今のTV業界は考へてゐないよ。
トライアンドエラーでいろいろやつてみて、取敢ず動く環境が出來たら弄らないやうにする、と云ふのがベターなのかな。金と時間かかるな。
歳くつた所爲か最近は環境を作る事が嫌で嫌で堪らない。昔は環境設定延々やつてゐても樂しかつたけれども。そんな事をしてゐる暇があつたら他に幾らでもやるべき事がある。録畫データのDVD燒きとか。
電波を受信するアンテナの情報をぐぐつて調べようとすると「ブログ」やら日記やらの情報を拾ふ「アンテナ」の情報がバンバンひつかかる件について。
何でウェブサーヴィスの方は紛らわしいネーミングをしたんだらう。作つた人、その時は「俺いい名前考へた!」とか思つたんだらうな。
と言ふか、いまさら誰もやらない遊びと化してゐるので情報少な過ぎ。昔はインターネットのユーザが少かつた分濃い人がゐていろいろ情報を出してゐたから案外いい情報があつたけれども、今はWiki系とか掲示板とかブログとかでよつてたかつて複數の人が情報を書込むスタイルが「主流」になつて却つて情報の密度が薄くなつた觀がある。あと最近は意味もなく足を引張る人が出て來てみんなやる氣なくしたり。
「がんばつてやればできる」と「すぐにできる」とは違ふんで、キャプチャカードを動かす環境を作るのに時間かける暇があつたら録畫してオーサリングして一枚でもDVD-R燒いた方が良いと言ふか午前中のAT-Xの番組全部録畫とかしてゐたりすると兔に角毎日のべつまくなし作業してゐないとHDDが滿杯に。
毎日六時間連續でTVのキャプチャやらせて半年再起動しないで安定動作とか實現してゐるんだからWindowsXPは無茶苦茶安定してゐると思ふけれども何うなんだらう。
Linuxに限らずBSD系とかも含めてunix系のOSを使ふ人はぷろぐらまの人なんだと思ふけれども、仕事なら兔も角、個人で何をそんなに澤山プログラム開發してゐるんだらうと不思議に思つたり思はなかつたり。文系でもまあ創作關係の人で幾らでも作りたいものが湧いて出て來る人がゐるからプログラマでも幾らでも作りたいものが次から次へと湧いて來る人がゐてもをかしくないけれども。
なんかよくunix系のOSを使つて個人的な開發をやつてゐるやうなのに、全然プログラムが外に出て來ない人が結構ゐるんで、何なのだらうなーと。
それにしてもこんだけ(どんだけ)ブランクがあつても俺の記憶してゐたのが未だに「定番」として定着してゐて、しかも死に體、と云ふ状況は何うよ。
次から次へと「あたらしいもの」は出てくるけれども、その所爲で前からあつたものは飽きられ忘れ去られて捨置かれる。これつて進歩なの?
動畫のストリーム配信にしてもGyao!とかBiglobeとかは「定番」化して安定してゐるけれども、最う技術的にはつまんないものになつてゐる訣でせう。せいぜいWMVのDRMをうんたらかんたらするテクだけが開發されてゐるくらゐで。だからこそニコニコが必死になつてヴァージョンアップを繰返し、「最新」みたいな雰圍氣を作つてインターネットのユーザにアピールしてゐるのだけれども――しかし、さう云ふのを追ひかけ切れなくて俺なんかはウェブから落ちこぼれてゐる。
90年代中頃の「マルチメディア」は、兔に角新しい概念を提示したメディアのやうな氣になつて多くのクリエイターが參入したけれども、傍で觀てゐる限り、あんまり新しいものはなかつた氣がする。今のニコニコにしても「書き込める」と云ふ事が「新しい」價値と看做されて持囃されたけれども、結局のところ動畫の中身がそれなりのものでなければ誰も見ない訣でコメントする事も行はれない。となると結局ニコニコの價値は個別のコンテンツの動畫に依存する訣で、さうなると古典的な方法論が再び顏を出す事になる。新しい價値なんてさうさう創造できたものではなくて、しかし「新しい」ものが流行つてわーっとユーザが集まると云ふのが今のインターネットだから新しくなくとも當座それつぽければ支持する人が出て來て、そこで古いものに「しがみついてゐる」人が見下される結果となる。が、さう云ふ事になつてしまふのは寧ろ世の中の趨勢で、今後もどんどん「脱落する人」が出て來て、一方「新しい價値」がこれまたバンバン生み出されては「やつぱり古かつた」と幻滅されて消えて行く、と、そんな事がこれからもインターネットと云ふ世界では繰返されてゐ句のだらうと。俺は何を書いてゐるんでせうか。眠い。
今だからいろいろわかつたやうな口を利けるけど當時はみんなわけわかんながつてゐたものだし。今だつてそんなみんな良く解つてはゐないと思ふ。俺もエヴァつて何だつたんだらうと未だによくわかんないでゐる。
基本的に技術とネタを見せる事だけがエヴァTV版の目的だつたんだらうし、さう云ふ目的でやつてゐないと庵野監督のアニメは全然面白くなかつたりする。カレカノは庵野氏本人が途中で投げちやつたけれども、三本だから最後までやつた事になるRE:キューティーハニーなんかですら最う何うにも見られたものではないんだから、内容の面白さなんかよりも技術の無駄遣ひつぷりが庵野氏の「魅力」である事は否定出來ないと思ふし、視聽者も庵野氏のはさう云ふのだけを期待してみるのが或意味正しいのでないかとすら。
吾妻ひでおなら「終つた」とか作者が叫んでひとコマで適當に投げるところを、庵野氏の場合、生眞面目にいろいろやらうとしてそれで映畫版(90年代の)なんかを作つてしまつた訣だ。技術的なアピールだけが目的だと考へればTV版は最うやる事やつた後シラネと言つてゐる完全な終り方であると解釋出來るし、さう解釋するならばあれはあれで。次の映畫まだ?
森メディアの国内製造のオリジナルブランド製品は、2008年9月末で 製造終了となります。との話で、板は非道い事になつてゐるけれども、ドライヴとか、或は燒きプログラムとか、そつちの方も最う目茶苦茶で、何うしたものかと。Zulu-2も死亡してゐるし。
あにめを3Mbpsで録畫してゐるくらゐだからその邊の品質なんて拘らない方が精神衞生的に良いやうな氣もするけれども。と言ふか拘らないからパイオニアのドライヴで誘電の板とかダメな使ひ方してゐるけれども。
いつのまにか「学校裏サイト」問題ウオッチブログと化してゐる。これは話の枕。「ところでいぢめと言へば」云々。
いぢめ問題では、「いぢめられる側が空氣讀めない」と云ふ「問題」を「いぢめる側」が良く指摘する。けれども、實はその「空氣」を作つてゐるのは「いぢめる側」の人間である事が屡々だつたりする。「いぢめる側は、『空氣』を作つて、それにみんなが從つて呉れるのが嬉しくて仕方がないのに、從はない奴が出てくる。それに頭に來て、いぢめるやうに『空氣』を作る」――さう云ふ事が結構世の中よくあるし、これは人間が人間である限りなくならないのだらうけれども、ならば「人間とは嫌なものである」。
と言ふかHTMLなんてそもそも誰も使つてゐないぢやん。ウェブにあふれ返つてゐる文書の群はどれもこれもなんだかよくわからないものだよ。HTML 4.01とかの仕樣に嚴密に從つてゐる正しいHTMLの文書なんてインターネットに存在する文書の何パーセントくらゐ「ある」だらう。
一年ちよつとの間、俺は全然變化してゐないけれども、ウェブ標準も案外變つてゐないやうな氣がする。なんかどつちも段々いんちきがばれてきたみたいな感じはするけど。
HTMLミニマリストの俺なんかにしてみればデザインの爲のHTMLつて何うよとか負け犬根性丸出しの事を言ひたくなるんだけれど何うよ。
と言ふかさ、今「HTMLの專門家」の人が本を出すと全員――一人の例外もなしに――「ウェブサイトを作る時は必ずデザインしましょう」と言つてゐる訣だけれども、さうやつて「デザインする」のが「當り前」と云ふ風潮を作つてしまつてゐるのは何うよ。反對すれば「素人は無知だから」つて云々。
システム的とかプログラム的とかの觀點(良くわからないけど)からどれが何んな風に洗練されてゐるとかゐないとかは言へると思ふけれども。
どうせなのでこつちも再開してみるテスト。「〜してみるテスト」つて言ひ方は最う死語? 世の中いろいろ變つたな。
理窟で反論出來ない人に限つて人格攻撃に走るよね。人格攻撃は勝手だけれども、俺個人を攻撃する人は一人の例外もナシに俺の理窟を論破できないでゐる。
コメント出來ない「ブログ」をやつてゐる人もゐる昨今、斯う云ふ昔ながらのうぇぶ日記も「あり」なのでないかと。
本屋で立讀みしてゐたら靴が壞れたので新調。壞れたのを引取つてもらつたら五百圓引きになつた。値引きの理由は何でも良いらしい。出たら目な根據もたまには有難い。

 

戻る

キャッシュワンのサイトです。

キャッシュワンのサイトです。