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きっととは?/ マイワン

[ 414] わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる
[引用サイト]  http://dain.cocolog-nifty.com/

男子のコミュニケーション能力の低下に起因するモテ格差は、今に始まったことではない。その一方で、オンナの子の手練手管指数は年々拡大しているのではないか。自分でも気づいていない「男子の本音」がこれほどまでセキララに暴かれている。
本書がスゴいのは、そうした本音下心を見透かされているだけでなく、模範回答まで紹介されているところ。露骨すぎず適度にオンナ心を伝える想定問答集を見ていると、なんだか寒いよママン。
問題を10問、用意した。オトコの発言のタテマエを見抜き、本音を暴いてほしい。かつ、(ここからが重要だが)そのホンネを汲み取った上での模範回答を考えてほしい。
アナタがオンナの子だったら「へへッ」と舌を出したくなるだろう。キミが男だったら、胸に手を当てて思い出してみてくれ、「こんな質問、したことあるよな」ってね。そして、「こんな返事、されたことあったな」ってね。
答1 : 似ているようで本音は全く異なるこのセリフ。前者はただの日常会話、「最近どうよ?」と同じノリ(ただし、「いない」への食いつき方から脈アリナシが分かれる)。問題なのは後者、「彼氏いるんでしょ?」の本音は、「ホントにいるとしても、頼む!『いない』と答えてくれーーー」という魂の叫びが込められているという。だから、安売禁止。適切な返答で下心を見極めろという。ちなみに、キープしたい男子への適切な返事は、「いつもそう言われるけれど… それって遊んでそうに見えるってことなのかな…」と上目遣いで彼を見つめ3秒停止。その後、ゆっくりと右下に向かって視線を外していけと(右利きの人は右下、左利きの人は左下にゆっくり視線を外すと、憂いをおびた美しい表情が作れるんだってー)。
答2 : セリフ単体にはホンネもタテマエもなし。日常会話「犬と猫、どっちが好き?」と同じレベル。ただ、どれぐらいの食いつきを見せるかで脈ありなしを判断せよと。だから、「オダギリジョー」なんて答えちゃうと男どもは萎縮してしまうので、「福山雅治」と答えるのが正解。なぜなら福山雅治は男も認めるカッコよさだからだそうな―― 脈アリと持たせたい男への模範回答は、「俺でもいけるんじゃない?」と期待を持たせ、かつ「ほんとっぽい」こと。「劇団ひとり」とか「品川庄治の庄治」あたりがよさげだそうな。ちなみに、わたしが現役(?)の頃は、「ホール&オーツのダリル・ホールが正解、間違ってもWHAM!のジョージ・マイケルと答えてはいけない」だった(出所 : 河よりも長くゆるやかに/吉田秋生)
答3 : これはトラップなので要注意。結婚願望が強いかどうかを見極めるためのうまいセリフ。オンナの子を悪い気持ちにさせずに、その子の本質をえぐりだすことができる賢いやり方なんだってー。口説いているわけでもないし、駆け引きをカンジさせないまま、ホンネが出てしまうそうな。だから、「よく言われるの!ワタシね、ワタシね、和食が得意なの!」と喜々と応じてしまうオンナの子は、「今がお買い得」の値札をぶら下げているようなもの。逆に「結婚願望ないんで」と拒絶するのもいかがなもの。正解は、「そう? ありがとう」と余裕の笑顔で応えるオンナにオトコどもは興味を湧かすそうな――ああああ、そういや嫁さんがそうだったような気が…
答4 : このセリフの裏側には、「見たところお金のかかりそうなオンナだけれど、実際はどのくらいお金のかかる女なのか」という切実なホンネが隠されている。「給料日前のチープデートでも応じてくれるのか」とか「カネをかける男にだけシッポを振るオンナなのか」を見極めたいらしい。亜流として「居酒屋とか大丈夫?」とか「ファミレスでデートってどう思う?」があるそうな。すまん、嫁さんが彼女だったころ、「つぼ八で大丈夫?」と聞いたことがあったが、他意は無いんだよママン!(絶叫)さておき、模範回答はこう、「今まで食べたことないけど、ずっと食べてみたいと思ってたの、だから行きたい行きたい、連れてってー」。だがこれは、脈をもたせたい男に対する模範回答で、安売りするつもりがないなら、初球は「今まで食べたことないけど」と答えるんだって。このセリフで「今までそこそこの扱いを受けてきた女だ」とクギを刺せる。そして、「ずっと食べてみたいと思ってたの」で彼を安心させることができる。
答5 : 彼女がいるかどうか、イエスかノーか問うているにもかかわらず、わざわざ「今は」を付け加えているところに注目ーってか、注目してほしい男心を分かってやれという。「何歳?」と質問されているのに、「いくつに見える?」と聞き返すのに匹敵するぐらいイライラするそうな(ごめんなさい、そう返したことがあります)。で、「今は」いないよの返事には「オトコの見栄」が隠されているという。「今は」いないけれど、少し前まではいたんだよ、だからモテないわけじゃないんだよ、という見栄なんだってー。このオトコを脈ありにしたいのなら、模範回答はこう、「じゃぁ、好きになってもいい?」――なんとゆー発言を。ただし、自分に自信があるオンナの子に限るそうな。そうでない子なら、彼の発言の後、2秒の間をおいて、心からうれしそうな顔をして、「よかった…」と応ずる。このとき、自分の胸に手を添えて、心からホッとしたような仕草をプラスすると効果大だそうな。オンナの子の上級者は、「今は」にツッコむんだって。「"今は"ってどうい意味?」と、あえて「今は」と付け加えている予想を裏切るようにすると、男のほうもドキッが生まれる(らしい)。「彼女とか、います?」なんて訊かれたことはあっても、「ずっといないよ」しか返したことがなかったからなー(遠い目 with 涙)。
答6 : 「一応」ってなんやねん!とツッコミたいところだが、ここに男の下心が垣間見える。よくあるパターンは「一応いるけど、最近会ってないかな」とか「彼女? 一応いるけど、妹みたいな感じだな」。ホンネは妻帯者の「最近、妻とうまくいってないんだ」と同じ。決まった人がいることは伝えたんだから、攻めてくるなら自己責任でよろしく、というやつ。キミにその気があるなら遊んだっていいけれど、「あそび」だからね、本気になられても困るよ? という線が引かれているそうな(これを予防線という)。そもそも本当にいるのかどうかも分からないから、要注意。「彼女がいる」という予防線を張っておいて、遊ぶつもりの相手がホンキになったら、「これ以上踏み込んでくるな!」と盾にする非道な男もいるそうな。嫁さんが彼女だったころ、「彼女とか、います?」なんて訊かれたとき、「一応いるけど…」なんて返したこと…ないない、ないですぞー(遠い目 without 涙)。
答6 : 「今度電話してもいい?」→「別にいいよ」、「今度一緒に映画にいこうよ」→「別にいいよ」といった、一見冷たい返事。これは嬉しさを表に出すのは恥ずかしいから「別にいいよ」と答えているんだってー(な、なんだってーΩΩΩ)。本当にイヤなら、「考えておく」とか「ちょっと忙しいかも」と遠まわしに断るいっぽうで、「ヤッター嬉しいな!」なんてはしゃぐとオトコのコケンにかかわるらしい。
答7 : WORNING! 下心アリアリだそうな。あるいは脈ありとみなしてOKらしい。「動物好き」をアピールする場合も同様で、「子どもや動物好きに悪いヤツはいない」という暗黙の了解にのっとって、「俺っていい人なんだよ」といいたいらしい。脈をもたせたいなら「私も(子どもが)大好き」と彼の目を見ながら言ってみろと。その後、ボディタッチしてきたら「子どもをつくる行為がしたい」サインになるし、身近な子どもの話をしだしたら、「ホントに子ども好き」と判断できるそうな
答9 : 「ずっと黙ってるけど、楽しくないの?」→「そういうんじゃないよ」、「最近会ってくれないけれど、他に好きな娘でもできたの?」→「そういうんじゃないよ」というやつ。残念ながら、悲しい意味が隠されている。答えはイエスなんだが、ズバリ言ってしまうと事態を悪化されてしまうので「そういうんじゃないよ」とお茶をにごしたい気持ち。例えば、「私のこと、飽きちゃった?」への「そういうんじゃないよ」は、「イエスと答えると、泣いたりわめいたり面倒くさいよな」というホンネがある。だから、「じゃぁ、どういうこと? なんで最近連絡をくれないのよ」などとしつこく追及すると――言わずもがなですな。この場合の模範回答は、「ない」そうな。だいたい「私のこと、飽きちゃったの?」なんて問うなら自分でも分かってるでしょ、そうなる前にどうにかしなきゃ、と突き放す。古典的なテだけれど、「押してダメなら引いてみな」は、男女関係にも使えるという。つまり、ちょっと距離をおいてみるわけだ。その結果、「やっぱり必要だ」と彼から近寄ってくるか、これ幸いとばかりに逃げられるかは――
答10 : 付き合っている彼に言われたならば、要注意。実によくあるセリフなのだが、「んもぉ、エッチなんだからー」なんて喜んでる場合じゃないらしい。予め断っておく。このセリフ、使ったことが「ある」が、ホンネは違うよ!そういう「場合」があるってことだよ!(って誰に断ってるんだろう?)じゃぁどういう場合か? 一緒にお風呂に入った彼が、彼女の股間をしこたま触ってきた場合、あるいは、お風呂に入らずエッチモードに突入してパンツ脱がされてアレアレされているとき、突然彼が「やっぱシャワーしよっか」と言い出したとき――あれは、彼が洗ってくれてるワケ。言い換えると、オマエ、臭いよのサイン(な、なんだってーΩΩΩ)。彼らの生々しい意見は本書で確認していただくとして、「愛撫してるフリして洗ってやる」男子がいかに多いことか。「彼が舐めてくれません(私はしてあげるのに)、これって愛されていないことですか?」などと発言小町に書き込む前に、ちょっと待て、ちゃんと洗ってますかと著者は詰め寄る。ええと、わたしは臭いがあるほうが好きなので (///) コメント控えめにしたいが、「臭い」関係はとてもデリケート。口臭、体臭、ワキガ、股間臭、言い難いし、言った方が悪者になってしまう。
だから、本書に協力した男性陣(なんと70名!)は、「俺がそうすることで気づかせてあげるのは、愛情」だと断言する。これついては誰も教えてくれない(自分で気づきにくいからね)。
オンナの子の感度はきわめて高い。鋭すぎるぐらいだ。デリカシーのない男が傷つけないように伝えるのは至難の技。「オトコは黙って」は古いかもしれないけれど、行動で示そうとする彼のやさしさなんだと受け取ってあげてくださいませ。
それから男子、完全に見切られてますぜ、どうしよう――って、どうしようもないね。恋愛経験値の多寡に限らず、キャラ作ったって、オトコのホンネなんて丸見えモロ見え、リーチミエミエ。見栄張ってるぶん恥ずかしい。
こういう「駆け引き本」を読んだ後は、「パカヤロ!ホントの自分、言いたいこと言ってやれ」と鼓舞したくなる。生きてる限り 石コロだらけでも大きな声でマンジャーレ!カンターレ!アモーレ!止まることない男女の道、だから終わらない愛を歌おう。わが道を突きすすめ、デタラメなキャラでもいいんだから。
もともと、某ゲームのモデルだという噂に惹かれて手を出した「おもいでエマノン」。ストーリーは違えども、生命誕生から現在までのすべての記憶を持つ彼女は、わたしの中に永くいつづけてきた。
すんなり伸びた肢体、長い髪、おおきな瞳、そばかす――ちょっとエキセントリックな彼女には、くわえ煙草が似合う。鶴田謙二氏が「SFオールタイムヒロイン」というのもむべなるかな。ちなみに、わたしにとってSFオールタイムヒロインのベスト3はこれ。
傷心をかかえた「ぼく」と怖いくらい共鳴しながら読む。物語を消費するのではなく一体化する感覚。思い入れが強すぎて、レビューよりも、思い出話をしたくなる。マンガ読んでこんなに切ない気持ちになったのは久しぶり。
ずいぶん古いSF小説だから、未読の方も多いかと。鶴田版「エマノン」が出たおかげで、マンガ→小説の順が鉄板のオススメルートになる。なぜなら、小説にはマンガの続きがあるのだから。そして、小説のエマノンがこれ以上ないほどの「彼女」になっているから。
最近、仕事だけでなく人も任されるようになった。死の行進を生き延びてきた。細かい指示ではなく目標と締め切りだけを渡されるようになった―― そんなあなたを上司が呼びつけて、
ただ、予告なく変更されることがある。自分でチェックするのは大変なので、メールマガジンを利用しよう。生々しい試験対策情報を得ることができるぞ。
実をいうと、上司のいう「会社で用意する研修」で無償で支給されるはず。だが、それを待っていては始まらない。会社からすると、「受験日までに受講させておけばいい」という意識なので、しばらく放置される可能性がある。やきもきするより、5,000円出して買っておけ(どうせボロボロになるし)。
入手してパラパラしたら、あまりのとっかかりのなさに絶望するだろう。だが安心しろ、巻末にレジュメがある。気づかずに最初からとっかかるとツボるので、全体像を把握しよう。
向こう3ヶ月の試験空き席状況を知ることができる。ちなみに、日本で4ヶ所しか受けることができないので、試験会場から遠い人は要注意。今年の年末なら――12月中旬あたりがリミットになる。プロメトリックは米国資本の会社なのでクリスマスはお休みしてたはず。
会社がやってくれる「研修」は、PMPを受験するために最低限必要な35時間の座学だ。もちろんこれだけでは足りない。トータルで150-170時間ぐらいの勉強が必要になる。あたりまえだが、時間やったら合格するというものではなく、もっと少ない時間で受かる人もいれば、時間かけたのに不合格の人もいる(わたしの場合、200時間ぐらい)。
やり始めると分かるが、かなり孤独な勉強になる。覚えるべき用語、身につけるべき考え方(PMIイズム)、計算問題が大量に出てきて、ウンザリして投げ出したくなるはず。
そういうときに、「勉強仲間」がいると心強い。一緒にやれなくても「あいつもやってるんだ」と思うだけでココロが上向くもの。非現実的な事例があっても、「あれはおかしいよなー」とか話のタネになるし。
――ただし、英語なんだよなー。平易な言い回しで読みやすいが、英語読みなれていないとそれだけ時間がかかる。タイムオーバーのリスクはあるが、それだけの価値はある。
先にも述べたが、「カブトムシ本」とは「PMP試験実戦問題」のこと。とにかく問題数が豊富なのがいい。単純な「インプット-ツール・技法-アウトプット」の記憶問題から、「こんなときPMはどうする?」的な問題まで全部そろっている。また、ひっかけ問題も意図して載せており、そこが「実戦」と謳っているところだろう。「PMBOK読んだだけ」で立ち向かうにはあまりに無防備すぎるから。
――ただし、誤りがあるのが玉に瑕。実践的良問ぞろいはいいけれど、解答や解説のところどころが誤っている。レビューしてなさそうな解説を見ると、自分のプロジェクト経験だけで答えるのは危険ということを、著者自身が身をもって示してくれることが分かる。誤答・誤解説が地雷のように埋まっているため、結局解答を信用せずに原典(PMBOK)を舐めるように読まなければならなかった。結果的にそれがPMBOKの繰り返し読みにつながったのだから、よしとするべしか…
まず、「群衆の叡智」で目指している方向が、わたしが期待しているものと違うことが分かった。グンシューノエイチを分かりやすく言うと、「みんなの意見は、案外正しい」になるという。ずーっと、この「正しい」に引っかかっていて、今でも解けない。
しかし、ご承知のとおり、ここではそんなことをしない。だいたい「すごい本」なんて人によるし、読んだ時期によるし、だいたい読むときの気分にも左右される。昔はアレだった本が、歳とって読むとキタコレになったり、超オススメ本を薦めたらけちょんけちょんに評されたり、誰でもあるでしょ?
だから、「正しい」なんてウソっぱち。せいぜい「これ読んだらガツンとキたよー」とか「それ読んで萌えたら、これもいけるぞ」ぐらいの『ゆるい』相関がなされるだけ。ハルヒとルイズならツンデレ属性だねとか、トフラーとドラッカーなら明日はどっちだ!?とか。
さはさりながら、こういうリンクが積み重なると、話が変わってくる。ハルヒとルイズ好きは、手乗りタイガーも炎髪灼眼の討ち手も大好物だろう。そして、そんなリンクが積みあがってくると、きっと誰かが言い出すはずだ「オレなら春琴で御飯三杯はいける」ってね。あるいは、トフラーとドラッカー好きが集まると、「チャルディーニが具体的だよね」とか言い出すヤツが必ず現れる。好き × 好きは、「もっと好き」ではなく、「ちがう好き」を生み出す。
みんなの意見を集めるときに出てくる「ゆらぎ」みたいなもの。ツンデレキャラベストを作るときの、泡沫票みたいなもの。だって「春琴抄」はスニーカー文庫にないもの。そしてだ、ルイズ好きが「春琴」にハマるとくぎゅうぅぅぅとか言い出すはずだ(キャラ的にはタバサなのだが…)。
多様な意見を集約しようとするとき、その方向からどうしても漏れる部分がある。わたしはソコに目をつけたい。「どうせランキングしたら○○か△△あたりが上位を占めるんでしょ」なんて「予想」には興味がない。「みんなの意見はだいたい正しい」だろうからね。
ただし、こうした「ランキング行為」が無意味だといっているわけではない。むしろ重要なくらい。なぜなら、そうしたランキング行為のホットなところに衆目の視線が集まってくるわけだから。それだけ多様な意思が紛れ込む可能性が高くなるからだ。はてなブックマークの「最近の人気記事」は、視線が集まるからその多様性を吟味することができる。
それならば、母数が多ければ多いほどいいんじゃない? とくるのだが、そうは問屋がおろさない。数が多すぎると「春琴」が埋もれてしまったり、流されてしまうからだ。はてなブックマークの集約方法が「鮮度と数」だけに由っているため、有意義だと「自分が思う」情報が流されてしまっているのと同じだ。
じゃぁどうすんだよ? という疑問への回答が、このblogのタイトルになる。わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる。わたしはあなたを探す。なぜなら、わたしがまだ読んでいないスゴい本を、もう読んでいるから。
そして、一番てっとり早いのは、視線が集まっているホットな場所で探すこと(盛り場でナンパするのと一緒だね)。わたしの場合は、ブックマークしてくれた人がそれにあたる。ブログをもっていたらそこへ出かけて、わたしの興味と照らし合わせる。解析ツールを使ってリンク元をたどる。そして、あなたを見つけたら、今度はあなたからスゴ本を探し始める。カンタンだ、わたしが読んでいない本をピックアップすればいいのだから。そして、その本の評価もカンタンだ、Googleに放り込めばいい。ただし結果は鵜呑みにしない。このときには「あなた」の数はかなりに上る。複数の「あなた」がそれぞれどう評価しているかを両方から照射してあぶりだすことができる。
だからわたしがキアイ入れてレビューするのも分かるでしょ? コメントであれ、ブックマークであれ、フィードバックが得られるから。そのフィードバックをくり返すことによって、手に入れた「ゆらぎ」を「わたしの興味の範囲」つまり「わたしに閉じた世界」の外側へ押し広げることができる。似たような本ばかり読んでいる閉鎖空間の大将にならないための、こころがけ。
「群衆の叡智サミット」では、多様な意見をいかに「集約」させるか、うまい仕掛けがないのかという方法が焦点になっているが、「集約」というスタンスに由っている限り、スゴ本はぽろぽろと抜け落ちていく。スゴ本を探すことについて言うならば、「みんなの意見」は役に立たない。ただし、みんなの意見が集まっているところにいる「あなた」を探すのには、けっこう役に立っている。
まず、自分にとっての「スゴ本」をいくつか選ぼう。これだけはゼッタイ!というヤツだ。沢山あればあるほど精度は高まるが、やるのも大変なので3冊ぐらいが妥当かと。
次に、それぞれの書名を「はてなダイアリーキーワード」にぶち込む。例えば、「カラマーゾフの兄弟」ならこんな結果が得られる。大事なのは、それを挙げている「人」だ。その人のダイアリーへ行ってみよう。
それぞれの「人」は、自分の感覚で取捨選択すればいい。そして、それぞれのスゴ本から得られた人一覧のうち、重なっている人がいたら、それが「わたしが知らないスゴ本を読んでいるあなた」になる。最後の工程はちと大変なので、機械的にandをとってもいい。ただし、アルゴリズムに任せると、「ゆらぎ」は失われるかもしれない。
主としてオフィスに生息する以下のオンナを如何に扱うかを主眼においている。著者に言わせると、次の10パターンすべてのオンナに対応できなければ、「オンナの気持ちが分かる」なんていえないそうな。やっかいながらも愛すべきオンナたちとうまくやっていくためのスキルを磨くことができる。キレるオンナ
とはいうものの、「極端」な事例ばかり並ぶ。書き手は現役の女医さんで、オモシロオカシクするために煽った書き方をしているのは見逃せない。「オンナから見たオンナの裏側」というやつ。
例えば、「オンナの言葉は、その場かぎり」だという。オンナの言葉のほとんどは「その場かぎり」のもの、あきらめてくださいとのたまう。世の男性が嘆くとおり、女性の発言はしばしば整合性・一貫性に欠けるところがあるが、悪気はないそうな。ただただ、たわいもなくしゃべっているだけなんだってー
あるいは、「オンナは行間やストーリーを無視して、シンプルな結論にしがみつく」そうな。「うちの旦那は冷たい」と断定する妻にそのストーリーや前後関係を求めてもムダ。オンナにとってそんなことは本当にどうでもよくって、「あのときこう言われた」「何々をしてくれなかった」という単純命題だけが、ポンと独立して思い出す仕組みになっているという。
さらに、「オンナの辞書に『自己否定』はない」とか、「ダメ男に尽くすのは自己愛を満たしているだけ」などと、えらく挑発的だ。職場や家庭で翻弄されている男性陣にとっては、溜飲を下げる副作用もあるかも。また、「セキララなオンナ像」には著者自身も含まれていることが自覚的でよろしい。
ただ、気になるのは、言葉の端々に「割り切っちゃいなよ」とか「しょせんムリムリ」といった投げヤリ気分が漂うこと。オトコとオンナは同じ生物とはいえ、別の生き物なんだから、相互理解は不可能、あきらめちゃいな―― というメッセージにゲンナリする。
そんな、女性「性」を織り込んで、投げ出さずにつきあっていくのが男の本懐じゃないの? 「オンナだから」とテキトーにあしらっちゃったら、もったいないぞ。そういうメンド臭いところも含めて、オンナとつきあうのはかなり面白い経験だと思う。
いちばん使えるのは、10パターンのオンナの発言に対し、「どうやって切り返すか?」を解説した問答集。(わたしを含め)ニブい男性陣にウレシイことに、「誤答」までしっかり網羅しているところ。例えば…
怒り心頭に達した最終通牒──といわれているが、実は違う。本当に気持ちが冷えて見切ったのであれば、こんなにエネルギー使って怒りをぶつけることなんてしない。ホントに愛想をつかせば、黙ってそっと行ってしまうもの。言葉の上でキレられているうちはまだ脈あり。
逆に、ここまで激しいセリフをぶつけてくるということは、その女性にとってかなりの重要人物だということ。それくらい「身内意識・味方感覚」を持っていることの裏返し。だから、「そこまで僕のことを買いかぶってくれて、光栄だなぁ」とひそかにほくそえむべし。
正解は、「面倒だからと、勝手なことをしない」だそうな。間違っても、「カチンときて、本当に勝手に振舞ってしまう」や、「面倒くさいので、とりあえず黙り込んでしまう」のはガソリンに着火マンになる。「こんなに期待していたのに、わたしのひとり相撲だった」と肩すかしにあった寂寥感を強烈に与えてしまい、話はどんどんややこしくなってしまう。
怒りをぶつけてくるオンナからは、逃げちゃダメだ。「なぜ怒って突き放すのか?」という理由を、むしろ積極的に尋ねる態度が重要。「どうして?僕たちの問題じゃないの?」という突っ込みは、単にその場の彼女の怒りを鎮めるだけにとどまらず、彼女に「暗黙の期待」をあらためて示すことができる。つまり、味方感覚をくすぐるわけ。
ああ、たしかにわたしは誤答をくり返してきた。んで、正論でもってやりこめたので、まさに最悪の選択肢を実行してきたわけね… とはいうものの、毎回毎回「誤答」してきたわけではない。ヒートアップする相方とは逆にクールダウンして「どこがマズいのか、どうすればいいのか?」を真摯に追求したときもある。「problem to us」の構図やね。
オンナは、自分の存在をどのくらい「重要視」されているか、ということにものすごく執着する生き物だそうな。必要とされたい、大切に思われたいという気持ちが強く、極端に言うと、その度合いがアイデンティティを形づくるすべてだという。だから、ひとたび「軽んじられている」と感じると、とたんにモチベーションのみならず、生命力すら低下させてしまう。
で、(ここからが重要なのだが)そこに至った原因は、その場の会話にないんだって。往々にして、すこし以前の出来事からの因果であるそうな。積もり積もった何か。だから、まずその記憶をたぐり寄せるべし――って、ああ、これも思い当たる当たる。数時間から半日ぐらい前の、モヤっとしたイラっとした会話が、直接的に言及されなくてもトリガーとなっている場合が多い。お互い、口に出さずともわかる「何か」が口論の原因なのだから、仲がいいのか悪いのか分からんね。
そして、思い当たるところを引き出しながら、素直にその態度を認めろという。「あなたをバカにしているのではない」というメッセージを強く伝えるためには、そう誤解されても仕方のないエピソードを思い出し、探し出す。
見つかったら、その部分をあえてこちから話題にのぼらせ、部分的に認めてしまう。「そう誤解されても、たしかに仕方がないね」と。その上で、「でも違う」と釈明することが重要だという。とぼけたり全否定して片付けようとすると、傷を深めることになる。たとえオンナの被害妄想からであっても、怒らせた「何か」を探し出して謝ろうとすることが、最終的に彼女の心を癒すんだってー
ううむ、眉ツバものとして聞いておこう。たとえ部分的にでも「ああ、あれ?wwwホントだよバカにしてたんだwwwそこだけwww」なんて言ったら刺されるよマジで――冗談さておき、怒らせてしまった何かを必死に探すのは男子共通のリアクションかも。
いじけたオンナをどうリカバるか。あからさまなイヤミ・あてつけに対しては、カチンときてはいけない。わたしがやってしまう失敗は、「何が言いたいのか、はっきり言えば?」とか「そんなわけないだろ」、最悪は「結局○○なんだろ」とまとめてしまうところ。これでなんべん涙の雨を降らせたことか…オンナの極端な自己卑下は、単なる強いイジケの表現。だから、リクツで問答しあうとこじれた論争になるという。
「どうせ」でイジケているときのオンナは被害妄想の鬼と化しているから、何か言葉を返せば返すほど、その言葉の中からネガティブな単語だけを拾ってインネンをつけてからんでくる。例えば、
こうなったら何も発声してはならない。「愛を込めて頭をコツンと」するのが得策。恋人など、もっと親しい関係であれば、腕や手をギュッとにぎることが効果テキメン。肩をギュッともんであげたり、手をポンポンとたたいたりするといいんだってー
ボディタッチはちょくちょくしてるけれど、タイミングは意識していなかった。こういった重要な場面で使うと効果大なんだね。
自己中だったり自己憐憫のカタマリだったり、おかしなオンナの交わしかたを読み進むにつれて、当然のように「これって、ホントにオンナだけの話?」という恐ろしい疑問が現れてくる。もちろん、オンナに限らない。「ハハッ、オンナってバカだよな」と笑ってるオトコが焙り出されていることに気づく。
例えば、「これやって!」「いいからやって!」とゴリ押しする人。「やってほしいこと」そのものよりも、その要求が通ることの方に重きを置く人がいる。その人にとって、「要求=プライド」の等式がシンプルに成立しているから。
つまり、要求を通すことで、プライドが引き立てられていることを確認できるのだ。オトコ・オンナ、関係なくこんな人がいる。対応策は、そのプライドの重要性をきちんと認めてあげること。その上で丁寧キッパリ断る。
男女の性による違いから出発して、いつのまにか男女を超えた人性まで話を持ってくる―― 狙って書いたのならスゴ本級だけれど、著者に自覚はなさそうだ。もちろんそんなことはなく、途中からどっちともとれる「職場のコマッタちゃんの扱い方」話に陥っている。
それでも、脳やら遺伝子をこねくり回して「オトコは○○、オンナは△△」と断定するクミコセンセやバーバラセンセよりは、うんと使える一冊。なんたって、実地のカウンセリングに基づいた知見だからね。
家庭の教育力は低下している。そのため、青少年の凶悪犯罪が増加している。だから、家庭の教育力を高めることが、最も求められている。
あるいは、「昔は家庭のしつけが厳しかった」とか、「最近はしつけに無関心な親が増えており、しつけは学校まかせ」といったイメージは、無条件に受け入れられているが、事実なのだろうか?
リカセンセやウチダセンセあたりが放言してそな言説に、真ッ向から取り組んだのが本書。センセやマスコミが「常識」レベルで扱っている「家庭の教育力の低下」に思いっきりメスを入れる。「そもそも『教育力』って具体的に何?」からはじめ、戦前〜現在にいたる文献・調査報告を集め、「しつけ」を立体的に解き明かす。
――もともと日本の伝統的な子供観は、「子供は自然に大きくなって一人前になるもの」だという考え方が支配的だったという。そのため、しつけや教育は家庭内よりも地域社会や学校に任せていたのが一般だったそうな。ごく一部の上流階級が、西洋風の考えを取り入れた幼少時の厳しいしつけや英才教育を施していたのが現実。
それが昭和になり、中・高等教育が拡大していくとともに、経済構造の変容の中で、都市部を中心に新中間層が拡大してきた。この新中間層は、子どもを意図的な教育の対象とみなし、家庭を「教育する機関」として編成していったという。父親は外で働き、母親は家で家事・育児に専念するという性別役割分業が組み込まれ、なかでも母親こそが子どもの教育の責任を負っているという意識がうまれたのだという。
いっぽうで、地域社会や村落共同体は、戦前期から子どもの社会化に対する影響力を弱めていき、高度成長期に最終的に消滅した。学校は立身出世機関として利用されてきた反面、「教育する家族」が広がる中で、相対的に影響力を失っていく――
結局、「家庭の教育機能が低下している」のではなく、「子どもの教育に関する最終的な責任を家族という単位が一身に引き受けざるをえなくなっている」構図を描く。その中で、「昔は厳しかったしつけ」は一部の例外が拡大されている事例を追求し、「しつけの失敗→非行化」という物語がつくり出されていることを非難する。
いちばん面白いのは、常識の問い直しの過程で、セピア色のイメージの裏側が暴かれていくところ。いちいち資料や数字にあたりながら検証していくので、イメージだけで知ったかぶるセンセたちは恥かくかも。
例えば、親ではなく、地域社会や丁稚奉公が教育的な役割を果たしていた、という主張の現実に目を向ける。一種のユートピアとしての村落共同体や、出世物語としての奉公制度のダークサイドを暴きたてる。
たしかに、親がしつけなくとも祖父母、近所の人、若者組など、周囲の人々が人間形成機能を果たしていたことはあった。あるいは、丁稚・徒弟奉公や女中奉公の教育的な役割を否定することはできない。
しかし、「村のしつけ」には差別や抑圧が組み込まれており、「目上」の人に礼儀正しいとは、忍従や卑屈さと表裏一体の関係であったことを指摘する。長男と次三男、男児と女児、家柄、家格の区別といった、微妙な差異付けの支配体系・隷属関係の上に成り立っていたことをあらわにする。
また、奉公制度の教育的側面ばかりを強調するのは、あまりにも牧歌的だと返す。見ず知らずの他人の中に放り出され、低賃金で一日中酷使されてきたことや、雇う側は必ずしも教育的な意図を持っていなかったことを指摘する。さらに、過重な労働で病気になったり、虐待がしばしばおこなわれたことも検証する。
子どもを放任してたのはむしろ昔(高度成長期以前)で、今どきの親たちは、はるかに子どもに手間ヒマお金をかけている。現代の親たちは、「教育する家族」のマネージャーとして、しつけや教育の担当者、手配師、責任者の役割を果たしている。
そして、童心主義・厳格主義・学歴主義の目標を同時に達成しようと奮闘する。つまり、子どもらしい心を持ち、礼儀正しく道徳的で、望ましい進学先に入学できるパーフェクト・チャイルドを作ろうとする。
なぜなら、親たちは常に不安にさいなまれているから。「あなたの子が非行に走ったならば、すべてあなたの教育・しつけの失敗なのだ」という言説が、親を恫喝するストーリーとなる。子どもの人生の失敗 は、そのまま親としての無能さや人格上の問題を示すものになりかねず、親たちは、子育てに熱心にならざるをえなくなっている。
著者である広田照幸氏は、御歳から察するに、サカキバラと同年代の子どもを育ててたようですな… ああ、なるほど。強い被害者意識はさもありなん。あのころは、子どもを扱うひと皆ハレモノに触る如しだった。マスコミが騒ぎ立てる「ストーリー」に振り回されたエネルギーが粛々と爆発する様を堪能できるぞ。
人は見た目が十割で、ブサイクは生きる資格すらないという強迫観念が、整形中毒者の不安を煽り、果てなき「美」への欲望が150億ドルの美容整形市場を生み出している――って、おまえらの「美」は医者が決めるんかい!
脂肪吸引、豊胸、フェイスリフト、ボトックス注射の事例が実況中継さながらに紹介される。ピンと張った陶器のような顔、大きな頬骨と形の良い鼻、大きな胸とくびれた腰、まわり、すらりとしたツルツルの足… それぞれ、パーツを取り替えるかのように買い求める「ビューティー・ジャンキー」たちは、ドラッグ中毒患者と重なる。
そして、ジャンキーたちは海を越える。バッグに現金を詰め込んで貧しい国へ飛び、手術台の安さにつけこんで「きれい」を目指す。アフリカへボトックス手術を受けにきたアメリカ女に、「そんな行為は典型的な『醜いアメリカ人』になった気がしませんか?」と問いかける著者。
その答えがイカしているぞ。たしかに比較的裕福なアメリカ人が手術費用の安さに乗じるというのは感じが悪いかもしれないけれど、経済的な視点で見れば、二人のしていることはよきサマリア人の精神で援助の手を差し伸べているとも考えられるのではないか。(中略)絶望的に貧しい南アフリカの経済にとっては、これだけのキャッシュが入ってくるのは歓迎されるはずだ。 つまり、海外で整形バカンスとしゃれこむのは合理的だそうな。手術跡が消えるまで知り合いと顔を合わさずにすむし、なにしろ安上がりだ。本国に帰るころには見違えるようになっていても、「海外でリフレッシュしたの」と言い訳も立つ。南アフリカ、ホンジュラス、ジャマイカ、タイ、ブラジル、マレーシアをはじめとした受け入れ先は、外貨を落としてくれる大切なお客さまだ(数年おきに何度も受ける必要がある)。
いっぽう、「おかしさ」も感じる。さっきから整形「美」をカッコ「」でくくっているのはそのせい。「脂肪吸引が必要です、充填剤を増やしましょう、フェイスアップはいかがでしょうか」―― 医者の営業トークと消費者の強欲から生み出される「美」は、かなり不自然だからだ。
そう、完璧な美なんてあるはずもないのに、人はみな老いて衰える存在なのに、何かに抗うかのように「自分に投資」しつづける中毒者たちの生態は、笑っているうちに恐ろしくなる。「こんなアタシは私じゃない!」ってか? 自分探し一生やってろ(笑)とツッコむうちに、ああこれは未来の日本なのかも「アンチエイジング」なんて格好の餌になってるよホラ!
ポイントは、番組のあいだ「自尊心」という言葉が繰り返されるところ。コンプレックスと脂肪を取り除きさえすれば、自分を取り戻すことができるというストーリーだ。「ビフォー・アフター」の違いは、強烈なメッセージとしてお茶の間にとどいたことだろう、「美は善」だと(その反対の「醜は悪」も)。
この考えに疑問が投げかけられることはない。「若者+笑顔+商品」がコマーシャリズムの王道だ。売りつけたい商品を善のイメージで包むために、(Photoshopを含め)広告会社はなんだってするだろう。「いやいや、高齢化社会を見越して老人も起用しているぞ」というツッコミには、奴らの顔をよく見ろといいたい。妙に白っぽく、シミ・シワも少なくないか? 中年顔に白髪かつらをつけた「エセ老人」ではないか? ってね。
つまり、若さや美しさは「善」として流布され、その反対の「醜いことは悪だ」というメッセージは、強迫観念のように刷り込まれるのだ。
だから、遅かれ早かれ、本書の「ジャンキー」たちがニッポンにもどんどん出てくるに違いない。見るたびに若返るタクヤくんや、頬骨の変形により別人なったユミコさん、ありえないオッパイをぶるんぶるんさせるキョウコ&ミカさまは、「まだ」向こう側だ。しかし、そのうち「プチ」で満足しなくなる「自分探し人」が増殖するんじゃぁないかと。「ルックスを良くすれば、モテる」なんてかなり強い惹句でしょうに。
そこでイヤでも思い出すのが、岡崎京子の「へルター・スケルター」。全身整形手術とメンテナンスにより、完璧な美しさを持つモデル「りりこ」が人気絶頂から転落していく物語。「もとのままのもんは骨と目ん玉と髪と耳とアソコぐらいなもんでね、あとは全部つくりもんなのさ」 いわば「みにくいあひるのこ」の偽物バージョン。醜かった彼女が美しく変身し、成功をおさめることで終わる話ではなく、そこから始まる物語なのだ。最初からりりこは美しく成功しているため、この先は破滅しか待っていないないイヤな予感が、爛熟した臭いとともに漂う。その腐っていく具合を、壊れていく過程を、彼女とともに「体験」できる恐ろしい作品だ。
俗に言う整形の怖さというものとはチョト違う。むしろ、心の姿勢のほう。「美を善」とすることを完全に選択してしまったら、後ろは崖っぷちとなる。あともどりはできず、振り向くことさえ自己否定と化してしまう怖さを知った。
どこまでが「プチ」なのか。過ぎたるは猶及ばざるが如しというが、どこまでが「過度」なのかのラインが変わってきているんだろうね。一昔前のブラックジョークに、「健康のためなら死んでもいい」があったが、今ならこうだろう、
1941年、ナチスによって寸断されたユーゴスラビアを舞台に、戦乱に巻き込まれてゆく少年を軸にした群像劇。アウシュビッツ収容所で、レジスタンスの戦場で、二重三重スパイの現場で、極限状況にありながら理想を求める生き様が生々しく描かれる。
最初に釘刺しておく。読者がいちばん不満に思うのは、何らかのカタルシスが得られないだろう。というのも、善悪正邪の構図に片付かないからだ。悲痛な叫びもドス黒い血潮も、何も贖うことなく話は進む。
もしも、単純に「ナチス=悪」を討つといったハリウッド的展開であれば、もっと分かりやすかったかもしれない。「『地獄の黙示録』を凌駕する山岳戦」といった惹句があるが、そういう見所はたっぷりあるからね。大義名分は決まっているので、戦争活劇のフレームに押し込んでしまうこともできる。
しかし、7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つのユーゴスラビアを描くには、そんなにカンタンな構図で収まるはずもない。それぞれの側で苦悩があり、希望と絶望がないまぜになっている。それぞれの立場で自己欺瞞にもだえながら、終わらない地獄絵図を歩み続ける。
いや、結局のところ、ナチスは滅び、ユーゴスラビアは解放されるのだから、そうした意味での区切りはあるといえる。あるいは、それぞれの運命が悲劇に終わったのか生き延びたのかによって終止符を打つことはできる。
しかし、彼らの苦悩は宙ぶらりんになったままだ。あの残虐な飢えが、あの一方的な殺戮が、あの地獄が何だったのか? と問うてしまうと、読者も一緒になって答えざるを得ない、「何も!何も生み出さなかったのだ、何も変わっていないのだ!」とね。
それでも、ギリギリのところでこう慰めてやってもいい。「生き延びること、命あっての物種なんだ」と。ラストの「石の花」の美しさは、それを見ている眼を通じて、生きていることのあたたかさを一緒になってこみ上げてくる。「石の花」とは、鍾乳石のメタファー。冷たい鍾乳石を「まるで花のように」感じられるのは人の眼だからだ。その石を現実として認めてしまったら、それまでなのだ。美しいと感じる心があるからこそ、生きていられる。
坂口尚の入魂の遺作、「あっかんべェ一休」もスゴかったが、本作品はそいつを超えている(「一休」連載当時から伝説扱いされていたし)。
予めお約束のコードがあって、そいつをどんなパラメーターでなぞるかでヴァリエーションを増やす。そんな固定化した観念がまるっきり見当違いだったことを思い知らされる。この物語はファンタジーでしか書けないし、テーマはファンタジーを、(少なくともわたしが勝手にファンタジーだと思いこんでた範囲を) 完全に超えている。
かといって、テーマが深遠だとかフクザツだとかいうわけではない。魔法使いサイベルが、人の心と愛を知り、そしてそれゆえに苦悩し、破滅へ向かおうとする話。お約束の台本どおりに進まない心理劇を眺めている気分になる。
かつて読んだファンタジーの記憶を刺激する一方で、オリジン(源)の匂いをかぎつけて嬉しくなる。黄金財宝を守るドラゴン、いかなる謎(リドル)の答を持っているイノシシ、黄金色の眼と絹のたてがみを持つライオンといった、どこかで見たイメージが交錯する。妖女サイベルは、いわゆる召喚士や幻術師が持つ能力を用いて、魅力的なケモノたちを操る。
心理描写を幾重にも張り巡らすのに、肝心のサイベルの心情は外からしか分からないように書いてあるのが心憎い。登場人物の性格についてもほとんど説明がない。表情や動作のちょっとした描写や、唇や眉の微妙な動き、息遣いの変化が心理の動きをあらわし、読み進むにつれて各人の性格が生き生きとイメージされてくる。
あまりにスゴいのでコミック化した「コーリング」(岡野玲子)を読む。これもスゴい。原作の持つ重濃的な幻想感覚をうまく絵にしている。美しいけれど氷の心を持つサイベルの表情に注目。最初は無表情だったのが、怒り、涙、愛を知り、微笑むようになる様が見事。そして、愛を知ったがために憎悪を秘めるようになった「眼」なんて、本当に恐ろしい。ほぼ原作どおりだが、セリフの片隅にちりばめたアレンジが愉しい。特に、ラストの妖獣たちのあやかしの場面がいい。アクションの少なさを補うかのようなスペクタクルに度肝抜かれた。
読了後、ハヤカワFT(ファンタジー)文庫の第一作だったことを知って戦慄する。たしかに「大当たり」の傑作だ。そして、世界幻想文学大賞が創設された1975年、最初に受賞したのが本作だったことを知って納得する(世界幻想文学大賞リスト)。
これはホロコーストの記録。強制収容所に囚われ、奇蹟的に生還した著者の手記。限界状況における人間の姿が、淡々と生なましく描かれる。高校のときに手にした記憶がまざまざとよみがえる(「あの写真」があまりにも恐ろしく、読むことができなかったのだ)。
目を覆いたくなるのは、その姿の痛々しさや残酷さだけではない。そんなことを合理的に効率的に推し進めていったのが、同じ人間だという事実―― このことが、どうしても信じられなかったのだ。
だから、さまざまな「物語」で知ったつもりになっている強制収容所の実態を読んで、一種の懐かしささえ覚えた(ホントのところは真逆で、本書を下地としてそうした「お話」が作られていたのだが)。
むしろ、そんな狂気の状況で著者がたどりついた結論のほうに目が行った。それを紹介する前に、ひとつ質問したい。わたしが質問して、わたしが答えてみる。
もちろん、この回答は著者が出した結論と違う。宗教的価値観やイデオロギーのフレームワークが異なる、なんて片付けられればどんなに楽だろう。しかし、仮にそうだとすると、この書き手は、被収容者の大部分と、まるで違うところを見ていたことになる。おおかたの被収容者の心を悩ませていたのは、収容所を生きしのぐことができるか、という問いだった。生きしのげないのなら、この苦しみのすべてには意味がない、というわけだ。しかし、わたしの心をさいなんでいたのは、これとは逆の問いだった。 極限状態に陥ったとき、目の前の苦悩そのものの意味を問わない。わたしは、そこから逃れようとするだろうし、適わないのなら、次元を変えてでも達成しようとするだろう。つまり、物理的に逃げられないのなら観念の世界へ逃げるとか、外界をシャットアウトして自分を外在化してしまうとか。しかし、著者フランクルは違う。すなわち、わたしたちを取り巻くこのすべての苦しみや死には意味があるのか、という問いだ。もしも無意味だとしたら、収容所を生きしのぐことに意味などない。抜け出せるかどうかに意味がある生など、その意味は偶然の僥倖に左右されるわけで、そんな生はもともと生きるに値しないのだから。 ここだけ読むと、まるで殉教者のようなものいいなのだが、その口は、「宗教」という枠から完全に離れたところで語っている。
被収容者に「宗教」がどのような役割を果たしたのかについて紙面を割いている一方で、上記の発言は心理学者――むしろ、いち科学者としての観察結果だ。生きる目的を、脱出できる将来に託した人や、過去の思い出にしがみついた人を分析する。将来に頼った者は暫定的な状況に耐えられなかった。過去から離れようとしなかった者は現実と完全に縁を切った(肉体的にはしばらく"生きて"いたが)。
ここで著者はニーチェの言葉を思い出させる――「なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐える」。そして、人間とは何か、について彼のたどりついた結論をこう述べている。わたしたちは、おそらくこれまでどの時代の人間も知らなかった「人間」を知った。では、この人間とはなにものか。人間とは、人間とは何かをつねに決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ。
「訳者あとがき」で気づかされるのだが、驚くべき事実がある。旧訳版には「ユダヤ」という言葉が一度も使われていないのだ。「ユダヤ人」も「ユダヤ教」も、ただの一度も出てこない。
それは、この記録に普遍性を持たせたかったから、「ユダヤ」という色をつけなかったのだろうと、訳者は述べている。一民族の悲劇などではなく、人類そのものの悲劇として、自分の体験を示したかったのだろう。
このメッセージ性の強い手記は、その人称の変化からも受け取れる。本作は、大きく三段階に分かれている。
読み手は、彼の体験の聞き手から始まって、同じ被収容者として追体験し、最後には「わたしの」経験として受け取れるように配慮されている。もちろん、これほどおぞましく、無残な経験なんて想像することは難しい。しかし、再現の可能不可能よりも、そういう構図で本作が書かれていることに注目したい。この意図もやはり、この悲劇に普遍性をもたせる一助となっている。
ナチス親衛隊員が全員冷酷で残酷な輩だったわけではない。彼らの中にも役割から逸脱し、人道的にふるまう者がいた。ある所長は、こっそりポケットマネーからかなりの額を出して、被収容者たちのために薬品を買ってこさせていたのだという。
これには驚いた。多くの、非常に多くの「物語」で、ナチス親衛隊は冷酷で無慈悲で残忍な存在として扱われていたから。「夜と霧」の劣化コピーにおいて、このカリカチュアのプロパガンダは喧伝されていたが、ほかならぬ本作でその否定形を見せられるとは。人間らしい善意はだれにでもあり、全体として断罪される可能性の高い集団にも、善意の人はいる。境界線は集団を越えて引かれるのだ。したがって、いっぽうは天使で、もういっぽうは悪魔だった、などという単純化はつつしむべきだ。ラベル貼りにより相対化ができる。本書自身がラベル貼りを拒み、何らかのプロパガンダのプラカードと化することを拒絶していることがわかる。戯画・隠喩となった「ナチス」を見かけたら、もう一度本書に戻ってみよう。
旧訳版と読み比べたが、読みやすさはダンゼン新訳版。試みに旧訳版を引用する。読み比べてみよう。すなわち彼は天に、彼の苦悩と死が、その代わりに彼の愛する人間から苦痛に満ちた死を取り去ってくれるように願ったのである。この人間にとっては苦悩と死は無意味なのではなくて… … 犠牲として… … 最も強い意味にみちていたのである。意味なくしては彼は苦しもうと欲しなかった。同様に意味なくしてわれわれは苦しもうと欲しないのである。 また、底本が異なっており、旧訳版は1947年、新訳版は1977年の版を元にしている。それぞれかなり異同があり、興味深い。なかでも一番なのは、アメリカ軍と赤十字がついにやってきたとき、前出の「温情的なナチス親衛隊所長」を、被収容者がかばうところ。これには後日譚がある。解放後、ユダヤ人被収容者たちはこの親衛隊員をアメリカ軍からかばい、その指揮官に、この男の髪の毛一本たりともふれないという条件のもとでしか引き渡さない、と申し入れたのだ。アメリカ軍指揮官は公式に宣誓し、ユダヤ人被収容者は元収容所長を引き渡した。指揮官はこの親衛隊員をあらためて収容長に任命し、親衛隊員はわたしたちの食料を調達し、近在の村の人びとから衣類を集めてくれた。 ここで初めて、「ユダヤ人」が出てくる。ここまでずっと囚われていた人びとは「被収容者」と指されていた。また、宗教としても民族としても「ユダヤ」という言葉は一切使われていなかった。これは新訳にのみであり、旧版には無い。
では、なぜ、ここで初めて「ユダヤ」という言葉が現れるのか?「訳者あとがき」で名推理が展開されているが、残念ながら、わたしにはそれほどの重みが感じられない。解説の是非はご自身の目でお確かめあれ。
量産された「金言」なんて、心に染みるわけがない (じょん・どー 和製マックス・クリフォードまでのはるかなる道のり!)

 

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