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いったいとは?/ アットローン

[ 680] 神とはいったい
[引用サイト]  http://homepage3.nifty.com/mgo/

第1には、結婚式の時まで守るべき絶対「性」、すなわち、絶対純潔の基準です。人間は、誰もが生まれてから成長過程を経ていくようになります。父母の愛と保護のもと、比較的安全で無難な幼少年時代を経たのち、周囲のすべての人たちはもちろん、万物万象と共に、新しい次元の関係を結び、新しく躍動的な人生を出発する青少年期に入っていきます。外的に成人になるだけでなく、内的に人格完成を通じた絶対人間の道に入っていく瞬間なのです。ここで、人間なら誰でも例外なく守るべき絶対必要条件が正に純潔です。人間にとって純潔がモデルとしての絶対「性」であり、必要条件なのは、神様が創造理想を成し遂げるために、御自身の子女に与えられた宿命的責任であり、義務であり、天道の道が正にモデルとしての絶対「性」の完成の道だからです。
人生の目的といえば最高の幸福を得ることでしょう。では、最高の幸福はどこにあるでしょうか。生命の親である神様の存在を知り、神様の愛と理想を知り、神様と完全に一つになるのが最高の幸福です。そのために人生はあるといっても過言ではありません。神様を求めてください。ここでは、神様の存在を証明いたします。
神様と人間との関係は、人間ひとりびとりが、それぞれ神様と親子の関係で、その関係は永遠のものであり、神様の愛は永遠不変のものであるということ、を伝えたいのがこのサイトの目的です。
神という言葉はいろいろなところで使われていますが、ここでいう神とは知・情・意を備えた心情のある創造主という意味です。
それを確かめるには、創造主の知恵と力がなかったならば、人間も含めて生物は生まれてこられなかったということを確認することです。
ペアで存在する動物や植物は、オスとメス、おしべとめしべがいっしょにならなければ、子孫は生まれません。
オスとメスが、自分が生まれてから、それぞれ自分の体を、自分で相手にあわせて変化させたわけではないでしょう。そんなことは出来ません。
生まれる前ということは、自分ではどうにもできないということです。体のなかの細胞も、意識もまったく手が出ません。
また、相手にあうようになっているということは、相手についての知識が必要だということです。まぐれでお互いがあうようにはなりえません。
ペアが必要な片方が先に生まれて、しばらく時代を経てから、もう片方がそれにあわせて生まれたでしょうか?片方だけでは子孫が残せないので、片方だけでしばらく時代を経るということはまったく不可能です。ですから、ペアは最初からペアとして生まれました。
いくら歴史をさかのぼっても同じことがいえます。つねに子孫を残せるペアとして、存在し発展し続けてきました。
※遺伝子工学では、カエルの子はカエルにしかならない(染色体の数は変わらない)、ということが判明しています。
生物は、単純な構造のものから複雑な構造のもの、最終的には人間にまで進化してきたのですが、その過程では染色体の数が変化しており、科学的に見ると(創造主の創造性を抜きにして考えると)、これは説明できない現象なのです。
このことからも、ペアの両方について、また、進化発展の道筋について、完璧な知識を持ち、進化発展に加担した、別の主体の存在を認めざるを得ません。
このように、ペアでなければ存在できない生き物がおり、自分では自分の体をどうすることもできないことを併せて考えてみると、
それを、宇宙意思とか、梵天とか、第一原因とか、大日如来とか、宇宙の見えざる手とか、どんな呼び方をしてもかまいません。
もし、創造主がいなかったとしたら、人間はおろか、その他の動物も、植物も生まれていません。確率はゼロです。なぜなら、それらはみな、ペアでないと繁殖・生存ができないからです。
生物は、神秘的な知恵と力を備えているので、それで生まれてきたのではないか、という考え方があるかもしれません。
生物が備えているように見える神秘的な知恵と力というのは、実は、創造主である神の知恵と力が、生物を通して見ることができたものだといえるでしょう。
生き物が、物質と違うところは、遺伝子情報をもとに、体が造られることです。この遺伝子と生物との関係は、ダーウィン進化論で研究されていますが、その研究結果を考察すると、それが、たまたまできたものではないことがわかってきます。(ダーウィン進化論については後述)
すなわち、生まれる前、体が出来てくる過程で、これから生きていく環境についてわかっていたということになります。また、子孫を残す体とはどんな体かわかっていたことになります。すべて、遺伝子に組み込まれているわけです。
美しい自然を創られたのも神様なら、それを見ることができるような優れた目を私たちに創造してくださったのも神様です。
私たちが神様のことを考えなかったとしても、神様は、私たちのことを、変わらずにずっと愛してくれています。
絶対的で、永遠不変の愛の主体者であられる神様です。私たちは、神様の愛の永遠なる対象だということです。
でも、自分は神から愛されていない、神の愛を感じない、喜びがないとお思いになっている方もいらっしゃるでしょう。
私達が存在しているのは、神様が愛の対象として私達の存在を願ったからです。神様の声は聞こえませんが、神様は愛してくれています。私達の存在自体がそれを物語っています。
ただ、人間に訪れた不幸によって、神様が私達に与えようとした創造理想はまだ実現されないものになってしまいました。この世は不条理な世界になってしまいました。
すべての人に幸福になってもらいたいという神様の気持ちは変わりありませんが、それを実現するまで神様ご自身も苦悩し苦労の道をたどってこられました。
神様は、親として、地上生活においても、霊界にいってからも、いつも、いつまでも、私たちを暖かく愛で包んでくれています。
私たちが神様のことを考えなかったとしても、神様は私たちのことをずっと愛してくれています。私たちの楽しい毎日に変わりはありません。
神様のほんとの願いは、私たち人間に、その神様の永遠不変の真(まこと)の愛を相続してほしいということです。
神様の愛と理想を知って、それと一致した方向に向って生きるほうが、一致しない方向に向って生きるよりも、ずっと幸福になれるのは当然のことです。
人間が自然界を自由にできるのも、神様が人間に神様に似た創造性を与えてくれたからであり、神様が、人間にすべてを相続させたいと願った愛の表れです。
また、私たちが普段神様にお願いしたいと思っている願いの大きさよりも、神様が私たちに与えたいと思っている愛のほうが、ずっと大きいのです。
神様のことを学べば、いろいろな悩みは悩む必要もないことに気がつきます。神様は、私たちの悩みもみなすべてよく知っておられるのです。
神様が存在するならば、なぜ、世の中にはこうも悲しいことが多いのでしょうか、なぜ、神様は沈黙しておられるのでしょうか。学べば、その疑問も解けます。
私たちはこの世界で生きています。生きる喜びに満たされており、自由で、どんなことでもすることが出来ます。
「自分ができる」という喜びよりも、できるようにしてくれた親なる神の愛と出会う喜びのほうがずっと大きいです。
【動物は模索しながら進化してきたように捉えられがちですが、実際はそうではありません。動物は、与えられた肉体に感謝して生きているだけで、それ以上のことは考えていませんし、考えても肉体は変化しません。
遺伝子のなかには目や耳が出現する可能性がすべて最初から含まれていたというのが、進化論研究の結論です。
耳の鼓膜で空気の振動を捉える構造も、目のレンズで光を捉えて映像を結ぶ構造も、動物自身が考えたのではありません。ではいったい誰が考えたのでしょう。耳や目を考えた主体を、創造主である神様と呼びます】
【霊界ってほんとは怖いところではありません。地上で神様の愛を知ってから行けばそこは永遠なる幸福の世界です】
【私が知る限りにおいて、神は宗教心をもったお方ではありません。神は教義の細部にこだわっておられません。】
【自然現象は偶然と必然に支配されているというのが今日の科学における一般的常識です。しかし、実は、これだけではすべてを説明できません。】
【人生は、いつか終わりの日を迎えます。そのときになって考えて、そうだったのかと気がついても、あまりにも遅すぎます。】
費用は、イベントセミナー1回1,000円前後です。継続したレクチャー受講・カウンセリングは別途費用がかかります。半年期間で約4〜5万円程度・地域によって差があります

 

[ 681] 「いったいどこが問題なのか」――JASRAC加藤理事長、公取委の立ち入りに「不満」 - ITmedia News
[引用サイト]  http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0805/14/news099.html

「いったいどこが問題なんだ? という気持ちが強かった。具体的な理由が分からないまま、公取委に入られるのは、多少の不満があった」――日本音楽著作権協会(JASRAC)の加藤衛理事長は5月14日に開いた定例会見で、公正取引委員会の立ち入り調査について、個人的な意見として、こんな本音をもらした。
加藤理事長は昨年10月、初のJASRAC生え抜き理事長として就任した。「どういうわけか、わたしが理事長になった瞬間に公取委が来る」と苦笑する
包括的利用許諾契約は、放送事業の収入の1.5%を支払えば、JASRACが著作権を管理している曲を何度でも自由に使うことを認めるという形態。JASRAC以外の新規事業者の管理楽曲を使う場合、追加で使用料がかかることになるため、新規事業者の参入を阻害する要因になっている可能性がある――と判断されたようだが、立ち入り検査の具体的な理由について、公取委はJASRACに説明しなかったという。
JASRACによると放送分野の包括利用契約は、1978年度にスタート。放送だけでなく店舗のBGMやストリーミング配信でも採用している契約形態で、国際的にも広く定着しているという。「公取委に対して『放送分野以外の包括利用契約も調査対象か』と聞いたら『今回は放送だけ』と言われた」といい、放送以外の分野は問題視されていないようだ。
加藤理事長によると、放送局との包括利用契約は「放送局からの強い要望で」継続しているという。「自由に楽曲を使えることで、音楽文化の多様性を担保している。エンドユーザーの要望にも応えているという自負がある」
それだけに「立ち入り検査を知った時は、おいおい、どこが問題なのさ、という気持ちが強かった。包括契約が問題になっていると聞いて二重に驚いた」と漏らす。
「公取委に対して『ほかの事業者の事業活動を排除している疑いがある』とは具体的にどういうことかと聞いたが、答えがなかった。言えないこともあるのだろうが、具体的な理由が分からないまま公取委に入られるのは、多少の不満はあった」
JASRACにコメントを求める取材も相次いだが「被疑事実が具体的に出ていないのに、憶測でコメントを言うわけにもいかない。わたしも言いたいことはあるが、具体的には申し上げられない」と話す。
「こういった問題に直面するのはJASRACの宿命。疑われたぐらいでピリピリしていてはいけない。かっかすることなく冷静に対処し、疑いを晴らしたい」
「ダビング10」延期がほぼ確定6月2日に予定していたダビング10開始日の延期がほぼ確実に。「ダビング10」について議論していた総務省傘下の検討委員会が開かれ、ダビング10開始について合意できなかったことが報告された。
ニュース番組作れる「ニコニコニュースメーカー」公開ニュース番組風の動画を作成できる「ニコニコニュースメーカー」が公開された。テキストを入力すれば、3Dキャラ「棒読子」「棒読男」が音声で読み上げる。

 

[ 682] 新聞が背負う「われわれ」はいったい誰なのか:佐々木俊尚 ジャーナリストの視点 - CNET Japan
[引用サイト]  http://japan.cnet.com/blog/sasaki/2007/02/24/entry_post_13/

ジャーナリストの玉木明氏は、オウム真理教事件の直後に刊行された「ニュース報道の言語論」という本で、新聞記事の主語は、実は文面にはいっさい出てこない「われわれ」であると書いている。たとえば、次のような記事の文例を見てみよう。「強引とも言える捜査は、小さな山村の集落の住民を相互不信に陥らせ、人のつながりを壊した。警察への憤りも広がっている」(二月二十三日、鹿児島県議選買収無罪判決の記事から)。この記事で警察に憤っているのは、誰なのか。ここで憤っているのは、実は書いた記者個人という「わたし」なのだが、しかし記事の文脈では「私が憤った」とは書かれていない。あくまでも社会全体の「われわれ」であるというスタンスを取って書かれているのだ。玉木氏は前掲の書籍で、以下のように書いている。
ある特定の観点を<われわれ>の観点とみなすこと、特定の主張を<われわれ>の名において主張すること、<われわれ>の意識をある特定の意識の中に囲い込もうとすることを意味している以外ではないだろう。私たちがそこから何ほどかのアジテーション的なうっとうしさ、押しつけがましさ、あるいはイデオロギー的な臭気を感じとるのもそのためだと言っていい。その文脈において仮構されている<われわれ>の意識と受け手の側の<われわれ>の意識とのズレが大きければ大きいほど、私たちが甘受するそのうっとうしさ、押しつけがましさの度合いもまた、それだけ高くなるはずである。
かつての平和な戦後の風景の中では、<われわれ>とリアル社会の間には、さほど大きな隔たりはなかったのかもしれない。年収五百万円、専業主婦の妻と子供二人の家族、社宅に住んでいる。夜はたいてい会社の近くの焼鳥屋で、課長の悪口と会社の将来の可能性をさかなに同僚と一杯。週末は接待ゴルフか、そうでなければ家族サービス。趣味は野球観戦――というような標準的な人が世の中の大半を占めていて、みんな将来にたいして不安は感じていなかった。そういう時代であれば、新聞が<われわれ>に仮託して、「大企業は消費者を大切にしていない、けしからん><政治家は信用できない>とステレオタイプなことを書いていても、違和感を感じる人はさほどは多くなかったのである。
だが一九九〇年代後半以降、戦後社会は崩壊した。かつての平和な風景は消失し、社会の一体感もなくなった。正規雇用−非正規雇用、富裕層−下層、団塊世代−団塊ジュニア、ネットを使いこなす人たち−ネットに拒否感を抱く人たち、といたるところで社会は分断していて、双方の意見をともにすくい上げ、双方が納得するような記事を書くのは非常に難しくなった。意見が単に対立しているだけならどこかで折り合えるかもしれないが、いま起きている分断は、単なる意見の対立ではないように思われる。おそらく、意見が拠って立つ基盤そのものが異なってしまっているのだ。
そういう時代状況の中では、新聞がいったいどのような<われわれ>に仮託して、記事を書くのかという問題が生まれてくる。
今回のインタビューで、毎日新聞の池田昭編集局次長は、何度も「見解の相違」ということを言った。もちろん、見解の相違はあったのだろう。それが何に対する見解の相違なのかをインタビューでは明らかにしてもらえなかった(果たして取材班の取材意図についての見解なのか、それとも「さくらちゃん」事件に対する見解の相違なのか)が、取材されたがんだるふ氏の見解と、取材班の見解が異なっていたのは間違いない。
当たり前のことではあるけれども、どちらが正義でどちらが悪かなどということは、そう簡単に結論づけられるものではない。結論づけるどころか、永久に歩み寄りができない可能性だってある。「ネット君臨」にはネット君臨なりの正義があり、そしてがんだるふ氏にもがんだるふ氏なりの正義がある。そこで検証すべきは、その言論の内容そのものなのであって、媒体の権威ではない。「新聞が書いているから正義」「ミクシィの一個人会員が書いているから信用できない」ということではないのだ。当たり前のことだが、新聞の主張が間違っていることもあれば、ネットユーザー個人の言っていることの方が正しいケースもある。いや、いまやそういうケースが激増していることは、ネットの秀逸な言論を見ていれば明らかではないか。
だがこの「見解の相違」に対し、新聞ジャーナリズムとして<われわれ>に仮託してきた取材班は、「<われわれ>を背負う取材班こそが、社会の総意にもとづいた正義なのである」ということを主張しているように思われる。だからこそがんだるふ氏に対して取材後、あるいは連載掲載後にまともな対応をしなかったのだ。社会全体の総意を背負っている取材班に対して、誹謗中傷を繰り返しているような「輩」が何を言ってきているのか……ということだ。
取材班に決定的に欠如しているのは、その相対性に対する認識なのだ。先にも書いたように、いまや<われわれ>の統一性は社会から失われてしまっていて、どこにも存在しない<われわれ>を主語にして記事を書くこと自体が、不可能になってきている。そのような状況の中では、新聞は<われわれ>に仮託して記事を書くのではなく、(1)自分自身がどのような立場でどう思っているのかという立ち位置によって記事を書くこと、(2)そしてその立場で記事を書けば、当然、意見の異なる他者が出現して自分自身が批判されうること、を前提としなければならなくなってくるように思う。
私が前々回のエントリーで、中立の立場を取らず、あえてがんだるふの立場に依拠して記事を書いたのは、そういう新聞に対する批判者の存在があり得ること、いまや新聞言論は相対化しつつあることを、明確なかたちで表出させたかったからだった。しかしそのような私の主張は理解してもらえず(私の手法が稚拙だったのかもしれないが)、インタビューでも池田局次長に「どうしてあのような一方的な記事を書くのですか」と言われてしまったのだった。
付け加えておくとすれば、池田局次長の「第三者に取材内容を教えることはできない」というコメントは、新聞編集局としてはごく当然の対応だとは思う。だから本当のところ、私のような第三者が口を挟んで可視化、可視化と叫ぶのではなく、取材された当事者本人が徹底的に取材側に向き合っていくしかないのだと思う。そうやって向き合っていく無数の言論の総体こそが、マスメディアを変えうるパワーとなるとも思うのだ。
しばらく前、知人の毎日新聞幹部が、「都市型新聞を目指したって朝日、日経に勝てるわけがない。だったらうちは徹底的に『弱者のための新聞』を目指すしかないんだ」と言っていたことがあった。
たしかに最近の毎日の紙面を見ていると、このような方向性に進みつつあるのかと思うこともある。世間の潮流からこぼれ落ちてしまった部分に、とにかくこだわっていこうという姿勢であり、弱者に光を当てていこうという視点の持ち方だ。その姿勢、視点はジャーナリズムとして正しいあり方のひとつだろうと、私は個人的には受け止めている。
しかしここで気になってくるのは、そのような視点を持った場合、記者という個人もしくは毎日新聞編集局という組織が、どのような立場でそれらの記事を書くのかという立ち位置の問題だ。毎日記者は、決して弱者ではない。新聞業界の中だけで見れば「他社より給料が安い」「人手不足で仕事がきつい」と弱者的立場に自分を仮託している毎日社員も少なくないようだが、しかし社会全体の中で見れば、当たり前の話だが、決して弱者ではない。年収で言えば、おそらくサラリーマンの平均年収ははるかに超えているはずだ。そういうエリート的な立場にいる毎日記者という個人としての存在、あるいは全国紙の一角を担っている毎日という新聞組織は、どのようにして弱者の視点に立とうとしているのか。そこの問題が問われているように思える。
毎日の記者は、おそらく弱者に自分自身を仮託して記事を書いているのだろう。しかしもし、今後も毎日が<われわれ>を背負っていくのだとすれば、その「仮託」そのものが、真正なのかどうか――つまり記者が勝手に想像した架空の弱者ではなく、本当の弱者に常に近づける作業をできているかどうか――という検証を、つねに行っていかなければならない。そうしなければ毎日は「弱者のための新聞」ではなく、「弱者のふりをした新聞」になってしまう。
今回の事件は、新聞が仮託している<われわれ>は、いったいどこに存在する視点なのかという問題を、顕在化させたように思われる。格差社会化、ネット社会化の中で、マスメディアのこの問題は今後ますます重要になってくるように思われる。これからますます人々の立ち位置は分断され、クラスター化し、言論そのものもマイクロコンテンツ化していくであろう中で、毎日新聞はどの「われわれ」に依拠しようとしているのだろうか?
実のところ、毎日新聞社内でも若手記者を中心に、そうした状況に対する危機感は広がっている。今回の一連のエントリーを公開した後、何人かの記者からメールをもらった。たとえば、次のような内容。
驚いたのは、(ネット君臨の)社内でのネット企画の評価が高いことです。1月4日付「開かれた新聞委員会」でもベタボメしていましたが、いつも辛口の「紙面審」でも高く評価されていることです。最初は売るため、毎日インタラクティブにアクセスさせるための「釣り」ではないかとすら思いましたが、社の幹部や一線記者が真剣に取材して、あのレベルしかできなかったという現状は慄然とします。新聞は中学生にも分かる内容にしろと言われており、難しい技術用語をのせるのはなかなか困難です。しかし、それとこれとは別問題でしょう。
それでもやっぱり、読者と対等な視線に立つのは怖いし、そんな付き合い方を読者としたら体力が持たぬから、こちらのルールと土俵に引き込んで「リアルな世界で責任取るべし」と浴びせ倒しの技をかけるしかないのかしらね。庶民をミスリードしないように、ちゃんと『リード』して俺たちが歴史をデッサンするんだ、という裸の王様になり始めているのにね。
そもそもリアルって何でしょうね。読者からクレームが来てもかわしたり、すかしたり、回したり、あきらめさせるように疲れさせたり、とどのつまりは最終兵器の組織力やエスタブリッシュなお友達のネットワークを駆使して組織防衛を図る我々のリアルな嘘も、そろそろ限界かもしれません。
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会議システムにネガティブなイメージを持つ企業がいる一方で、難なく日常業務の一環として使いこなす企業も存在する。この違いは一体どこから来るものなのだろうか。
みんなのお題では、ブロガー同士で質問を出し合いそれに対する回答や意見を集めています。今日はどんな話題が盛り上がっているでしょう?
ウェブ3.0論議はさておき、ネットの今後に関してとても示唆にとんでいる内容であると思います。「ユーザー?..
広い視野と鋭い目を持ったブロガーたちが、今日のIT業界や製品に対するビジョンや見解について日々熱く語っています。
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